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悪性胸膜中皮腫の診断から免疫療法と手術の治療を経て(患者手記)

公開日:2023年9月5日

執筆:九州支部/仁科 裕明

※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

はじめに

私は、昭和39年生まれの59歳です。

趣味はJazzの演奏で、社会人ビックバンドに所属してバス・トロンボーンやコントラバス(ベース)を担当しています。

中皮腫患者

大学を卒業以来大手電気メーカーに勤務し、電子機器や半導体計測用部品などの販売を得意分野として、日本国内や世界各国の主要電気メーカーを相手に長年営業活動をしてきました。

2013年には事業本部の企画部長、営業推進部長、2016年には西日本の統括営業部長、経営企画部長を歴任してきました。

勿論営業の仕事なので、社会人になってからアスベストを取り扱うような仕事は一切しておりませんでした。

中皮腫は診断が難しい病気

2019年8月に得意先と名古屋市内で会食した際、右胸が痛み出しました。得意先からは「ゴルフのやりすぎですね」と笑われましたが、東京に向かう新幹線の中で痛みが激しくなり、深呼吸すると更に痛みが増してきました。

翌日、東京の自宅付近のかかりつけのクリニックを受診しましたが、すぐに秋葉原にあるM病院の呼吸器内科を受診するよう紹介されて、そのままタクシーでM病院に向かいました。

M病院は明治時代から歴史のある、都内でも有数の総合病院です。

レントゲンとCTを撮影し、抗生剤と痛み止めを処方され、その後数回通院しましたが、細菌性のものではなく、医師からは原因がよくわからないとの事で経過観察となりました。その後も毎月通院して血液検査及びレントゲンとCTを撮影しましたが、痛み止めの対処療法のみです。

2020年3月頃、コロナ騒ぎもあったので一旦通院を中断しましたが、痛みと言うより肩凝りに近い痛みだったこともあって、自分自身、50肩であると思い込んでおりました。

2020年10月に大阪の総合病院のY病院で人間ドックを受け、右肺に筋のような影が写っていましたが、胸膜炎の跡だろうとの事で、医師の問診はそのままスルーとなりました。

2022年1月6日、新年早々都内の検診センターで人間ドックを受けた際、右肺の影が増大しており、問診の医師より再度M病院を受診した方が良いとの事で、翌日久々に呼吸器内科を受診しました。

中皮腫の確定診断

呼吸器内科の担当医は以前と変わっておりましたが、以前の診察カルテを見て「おかしいなあ・・・」と首を傾げていた事が思い浮かびます。カルテには、痛みが前任の医師により勝手に寛解したと記載されていました(この病院の解釈については、現在もかなり憤りを感じています)。

胸水が溜まってきているとの事で、再度造影CTによる検査を行い、2022年3月7日に1日だけ入院してCTによる胸腔穿刺を行い胸水の検査を行いました。その結果、悪性(がん性)のものは検出されず、証明書も貰いました。

その時の安堵感は口では言い表せません。経過観察となりましたが、2022年5月頃に呼吸困難感が増した為、再度受診すると胸水が増加していました。

胸膜が肥厚している部分を内視鏡で生検し、胸水を抜く為に10日程度入院が必要になりましたが、コロナの為に病棟が占有されていて、なかなか入院ができず、入院できたのが、2022年の8月10日からでした。

入院時も恐らく良性の腫瘍だろうと楽観視しており、ドレーンで胸水を抜き胸膜癒着術を行ったのですが、2022年の8月20日に呼吸器外科の医師から、「胸水からクラスⅣの悪性物質が出ていますよ」とリークがありました。

何故そこで外科医のリークがあったのか不明ですが、クラスⅣに反応してしまい奈落の底へ突き落とされてしまいました。(ステージⅣと誤認)医師を問い詰めたところ、「生検の結果までコメント出来ません、大丈夫ステージⅣとは違いますよ」との事でした。

多少は安堵しましたが釈然としません。

本当の「絶対絶命」

一旦退院し、9月2日に呼吸器内科の主治医に呼ばれて、確定診断を言い渡されました。

「生検の結果が出ました。中皮腫という病気です」

「先生、肺がんではないのですね。」

「厳密にいうと肺がんではないのですが・・・うーん何と言ったら良いか・・・」。

ここで、安堵感が出て気持ちが楽になったのを覚えていますが、医師の表情は険しいままです。「正直に言いますと、肺がんより厄介ながんで、アスベスト起因の予後が非常に悪い病気で、完治は困難です」。ここで、一気に奈落の底に突き落とされました。流石にアスベスト→致死率の高い肺がん程度の知識は持ち合わせています。

つい言葉を荒げてしまい、「先生、アスベストを吸うような仕事はしていないのですがなぜですか、また再三CTで検査したにも関わらず、この病院では何故3年間も病名が特定できなかったのですか?」「非常に確定診断が難しい病気なので、ご理解ください。20年から30年後に発症する病気なので、過去にどこかでばく露したと思われます」。

ビジネスの世界で、「絶対絶命」と言った危機を何度も乗り越えて来ましたが、これは本当に「絶命」の危機です。

しかしながら冷静に対処しなければなりません。

主治医の話はさらに続きます。呼吸器外科の部長と科長が既に治療計画書を作成されており、「EPP手術と言って肺を全部摘出する手術がまだできる可能性があります、それでも予後はかなり悪いです。」と、今後の肺全摘出(EPP)手術の計画書を見せて頂きました。「上皮型ステージ1の診断ですが、腫瘍が肋骨に巻き付いている箇所もあり、手術は難しいかもしれません」。

「先生、本音で話してください、余命はどのくらいですか。」

「進行度合いが人によって異なりますが、だいたい余命1〜2年と言われています。」

「右肺を切除するとどうなりますか。」

「人によっては車椅子生活とか、呼吸器を付けないといけないとか、他のがん患者さんでも沢山見て来ていますが、QOL(生活の質)がかなり低下します。」

「私は国立の他病院に3年いましたが、中皮腫の患者さんは3例ほどしか見ておらず、どの患者さんもよろしくありませんでした。中皮腫の手術にはQOLを重視した肺剥皮法(PD)というやり方が現在は主流ですが、当院ではEPPしか対応しておりません、また中皮腫患者さんは症状が進行しているか、高齢で手術できない患者さんの方が圧倒的に多いです」

「先生、PD手術が出来る病院はありますか」

「当院の外科の先生は手術をする気が満々なので悪いのですが、私個人の意見として中皮腫については治療実績の多い病院のセカンドオピニオンを推奨します、但し関東よりも西日本の方に治療実績が多いです」

「H医科大学病院とS医科大学病院に実績が多いようですね。」

「それではS医科大学に紹介状を書いて貰えませんでしょうか」

このようなやり取りで、北九州市のS医科大学病院を受診することになりました。

M病院の呼吸器内科の医師が自分の病院での診察に固執せず、セカンドオピニオンを推奨して頂いたので、結果的には良かったと思われます。

九州の病院への転院

M病院は大病院なので紹介状の発行にも時間を要するのですが、主治医の取り計らいで翌週には北九州市のS医科大学病院を受診できる事になりました。

福岡にも自宅があるので、付近の地理はよく知っています。

会社の総務部長から、「肺がんだったら東京の方が良い病院があるのでは?」と言われましたが、手術を前提として色々調査してみると関東の病院では良い選択肢が見つかりません。

実際に都内にあるいくつかの医療機関に電話したり、質問したりしましたがあまり良い回答がありませんでした。

入院に備えて部下に業務上の権限を移譲する書類にサインをして、早速九州に向かいました。

病院は福岡市の自宅から車でほぼ1時間程度の距離です。T教授、主治医となるK准教授と面談しましたが、T教授は肺剥皮法(PD)の第一人者で、もともとH医科大学で多くの中皮腫患者の対応をされた実績があり、2013年にS医科大学に招聘され、現在は病院長になられておられました。

病院長自ら中皮腫の第一人者・理解者という事で、この病院では豊富な経験則で私の治療方法を決定頂けるのは間違いありません。

こちらの病院での見立てはステージⅡBでした。

同じ資料からでも判定が異なるのには驚きましたが、十分納得が行く説明を得られたので、翌週早速検査入院しました。

肋骨に腫瘍が巻き付いている点、腫瘍が肺に食い込んでいる事が確認され、そのままのPD手術はリスクが高いことがK医師より改めて示されました。

そこで、オブジーボ・ヤーボイの免疫療法を行い、腫瘍を縮小させてから切除手術をした方が良いとの提案を頂き、免疫療法をスタートしました。

東京の病院ではオブジーボ、ヤーボイ、免疫療法と言う提案すら無かったので、やはり中皮種の治療経験の豊富な病院を選ぶのは重要だと、改めて感じました。

仕事面では出張を伴う業務は全く無理で、出社することも厳しく、上司に無理を言ってリモートによる在宅マネジメント業務に変更してもらいました。

腫瘍が縮小せず手術に踏み切る

途中肝機能悪化による中断期間はあったものの、オブジーボ5回、ヤーボイ3回を行いました。

2023年2月に、腫瘍が縮小どころか部分的に増大している事が判明し、以下の通り主治医から提案がありました。

  • アリムタ・シスプラチンに抗がん剤を変更して引き続き腫瘍の縮小を試みる。
  • 肺全摘出になるリスクはあるが、リスク覚悟で手術に踏み切る。

「先生、①の化学療法が効果なかったら手術も手遅れになりますよね、手術をお願いします」という事で、リスク覚悟で2023年3月7日にPDの手術を行いました。

T教授にメインで執刀いただきましたが、主治医のK准教授をはじめ第二外科の医師がチーム総出で手術に立ち会って頂きました。

手術時間12時間、肋骨3本切除、胸膜、心膜、横隔膜切除、輸血4.5Lの大手術となり、(本人麻酔で意識ありませんでしたが・・・)取り出した腫瘍の重さは2Kg弱で、S医科大学病院の第二外科としても新記録であったそうです。

最終的に腫瘍がリンパにも到達し、ステージⅢBの判定でした。肉眼で目視できる腫瘍は全て削除されたそうですが、目視できないところは必ずあると言う説明も受けました。術後に免疫療法の副作用と思われる間質性肺炎を併発し、入院が多少伸びましたが外科的な治療は成功し、外科手術の傷跡も痛まず、筋肉を切った割には右腕も自由に動かせる状況で、やはり外科医は「腕」だな、と感じてしまいます。

障害者手帳申請

PD手術後に間質性肺炎を併発したのと、手術した右肺の気胸もあるので、ちょっとした所作で心拍数が上がり息苦しさがあります。

肋骨3本切除、胸膜、心膜、横隔膜切除により肺を人工物(ゴアテックス)で再建しており、日常での痛みも尋常ではありません。

これでは近所に買い物にも行けませんので、酸素発生器の処方を主治医に依頼し、住民票のある自治体(東京都台東区)に障害者手帳の申請を行いました。

現在外出する際は酸素必携となっております。

主治医とよく相談して、日常生活が厳しい場合は迷わず申請された方が良いと思われます。

障害厚生年金

手術前から息苦しさがあり、キャラバン隊に社会保険労務士さんを紹介頂き障害厚生年金の相談をしました。

働きながらでも、抗がん治療の副作用(だるさ等)で3級の認定をされる可能性がありますので準備をしておりましたが、前述3月にPD手術を行った為に後遺症について追加の書類を書き直しました。

5月20日に社労士さん経由で年金機構に申請して、7月20日付けで障害厚生年金3級の認定がおりました。

失業した場合でも失業手当が減額されないそうです。

こちらも年金機構に対し、感覚的な事象を書面で訴求しなければなりませんので、障害年金に対して経験豊富な社労士さん経由での申請を推奨します。

(但し、成功報酬として所定の手数料を請求されますが)

復職に向け

さて、年度が変わり2023年度になりましたが休職中で復帰の目処が立たないと言う判断で、部長職を解任され一般社員に降格されておりましたが、2023年7月から在宅ワークと時短勤務で復職することができました。

年間120回も飛行機に乗り、国内、海外に商談に行く業務は無理なので、PC操作中心のバックヤード的な支援業務をしております。

幸いな事に会社の同僚、上司にも配慮頂き、後進の指導に当たっております。

中皮腫キャラバン隊との出会い

確定診断の日に自分の余命を20ヶ月と自ら仮定しました。

自分の軌跡を残したいと思い、上から目線で自暴自棄のブログを開設したところ、中皮腫キャラバン隊の右田理事長にブログを読んでいただき、メールを頂戴しました。

色々相談にも乗っていただき、中皮腫と確定診断されて苦しんでいる患者仲間も多くいることがわかりました。

患者仲間と交流することで、困難を乗り越える為の情報交換が出来ております。

最近では、患者本人として関係省庁との意見交換会や国会議員会館での議員陳情等を手伝いましたが、今後もアスベスト被害者支援のお手伝いができればと考えております。

労災なのかどうか

キャラバン隊事務局への相談の中で、「学生時代のアルバイトも含め」今一度何かありませんか?とのことで思い出したのは、学生時代の夏休みに群馬の実家に帰省し、プラスチック製品及びユニット住宅大手のS化学工業の群馬工場で1985年と1986年に延べ100日位住宅の外壁材(サイディングボード)や屋根瓦への塗装の仕事をした事を思い出しました。

住宅のサイディングボードや屋根瓦は、1985年当時はアスベストが含有されているのが一般的で、塗料にもアスベストが含有されている可能性が大です。

ここでのアスベストばく露はほぼ間違いないと判断し、工場や実際に雇用されていた製造ライン請負業社は現在もそのまま存続して業務を続けていることが分かりました。

そこで、キャラバン隊の松島さん、西山さんにご協力頂き、請負の雇用主に対し労災の事業者証明をお願いしました。

地元の会社なので、所長さん、上司の方の名前は全て記憶しています。

相談したところ理解を示し、当初事業者証明を出すと言っておりましたが、S化学と共謀して時間稼ぎをされてしまいました。

散々待たされた挙句、事業者証明拒否です。

S化学の所長名で押印された書類が参考資料として添付されていて、請負会社宛に「当該事業所でのアスベストの製造はありませんでした」の一言です。(文章そのまま)

「塗料の会社に聞きましたが、当時の塗料もアスベストの含有はなかったそうです」(本当に確認したのならば、品名や型番が判るはず)

従ってアスベストとは関係無いので事業者証明は出さないと言う回答でした。

ビジネスマンの私から見ても、科学的論拠の全く無い全くふざけた回答ですが、逆にこのプアな回答の内容から限りなく黒に近いグレーと判断できました。

なぜならば、自社が潔白だったら科学的論拠が示されるからです。

当時の住宅用サイディングボード、屋根瓦へのアスベスト含有は公知の事実で、実際に厚生労働省やS化学工業のHPでも過去のアスベスト含有製品の販売を認める製品の詳細内容が記載されております。

確かに群馬事業所では、塗装工程だけでアスベストの「原料」自体の取り扱いはなかったと思われますが、実際には他工場で製造された製品を群馬工場に持ち込んでいたのは明らかで、サイディングボードを裁断加工する機械の近くで業務を行ったり、ラインに挟まって失敗したボードの粉砕廃棄等の業務も行っていたので、明らかに説明内容が不足、矛盾しています。事業者証明無しで労災を申請するかどうか現在関係者と相談中ですが、労災が認められても、休業補償金額が当時のアルバイト賃金をなってしまう点などいろいろ問題点もあります。

アスベストの原因企業の体質に関して、名だたる大企業でも誰も責任を取らず、問題を先送りにするのはどこも一緒のような気がしますが、流石に開いた口が塞がりません。

もっとも、S化学グループでは自社製品の住宅施工会社(子会社)の元従業員の中皮種患者に対しても事業者証明を出さず、見殺しにするような親会社と判明しましたので特に悪質と判断しました。

この会社が過去に販売した住宅の屋根瓦やサイディングボードは長年紫外線や風雨に晒されていますので、経年変化でアスベストが露出する可能性も否定できません。

また、住宅を解体する時はアスベスト飛散について細心の注意が必要です。

住宅を過去に購入した人から訴訟問題になると、企業としての存続も厳しいのでは?思われますので、問題を認識しても黙殺しているのでは無いでしょうか。

HP上はアスベストに対して気遣っているような書面がありましたが、被害者救済には勿論乗り出していません。

私のような隠れ被害者が相当数いるのでは?という疑念が湧いてきます。

最後に

新たに発生する被害者を防ぐ事は難しいと思われますが、メンタルケアや色々な手続きに対して、自分自身の経験を通してノウハウができました。

今後も中皮腫患者本人として仲間の支援を続けて行きたいと思いますが、交流を通して人間的に成長したいと思いますので、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします。

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