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悪性胸膜中皮腫との5ヶ月:2023年1月〜5月(患者手記)

更新日:2023年7月8日

公開日:2023年7月3日

執筆:ひょうご支部/真方 明

※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

肺に白い影と悪性胸膜中皮腫の確定診断

私には、妻と独立している息子と娘がおります。

中皮腫真方

決して社交的ではありませんが山登り・テニス・ボーリング・ヨガ・手話など家にこもっているよりも外に出て活動することが好きでした。市役所退職後はアルバイトをしながら、妻と二人落ち着いた生活を送っていました。

2022年12月、私は新しく勤務することになった事業所から胸のエックス線の健診結果を提出して欲しいと言われ、近くの医院でレントゲンを撮ると、昨年まではなかった白い影がはっきりと肺に映っていました。医師に心当たりはないかと聞かれてもタバコも吸わず、がん家系でもなく何で…という思いでしたが、その白い影はただごとではないという様に光って見えました。医師から市立病院を紹介され年明けに受診することになりました。

私は家に帰っても妻にはそのことを伝えられませんでした。年末に 2 人目を妊娠している娘が孫を連れて帰って来る予定でせめてこの正月くらいはみんなで楽しく過ごしたいという思いが強かったのです。

2023年1月3日、妻に「明日、市立病院で肺の診察をする」と告げました。大きな不安は有りましたが、それよりも持病がある妻のことが心配でなりませんでした。案の定かなり動揺している妻を見て胸が痛みました。

1月4日に市立病院で血液、尿、レントゲン、胸水の検査。1月12日には肺の造影剤検査及び生検、1月14日にはPET検査を受けました。

そして、1月18日に悪性胸膜中皮腫(上皮型)ⅢBと確定診断されました。私自身はがんと宣告されてもステージⅠかⅡ位だろうと思っていたのですが、すでに手術も出来ない程進行していました。今後の治療方針、目的は延命治療、QOLの維持であるとの説明を受け、ホスピスの冊子を渡された時に「ああ治らないんだ、もう死ぬだけなんだ」と思ったものの、まだどこかよそ事のようでした。

主治医からの確定診断、がん専門看護師との面談、ケースワーカーとの面談。医療スタッフと1日に3回に分けて行われた面談が中皮腫の恐ろしさを物語っているようでした。

長生きして欲しい

主治医の話から、職場にむき出しのアスベストが天井・壁に吹き付けられていたことやアスベストが劣化して舞い上がっていたことを思いだしました。「石綿健康被害救済制度」と「労災(公務災害補償基金)」を申請するようにと言われました。

私はあえて聞きませんでしたが、妻は娘の出産のこともあり私の余命について一人で主治医と話をしていました。この時期の妻の落ち込みようは相当なもので泣き暮らす日々でした。妊娠初期の娘には動揺をさせたくないと告知しないことに決めました。

息子と義理の兄と弟に連絡をとり病状の報告をしました。息子には私が中皮腫になったこと、予後が悪い癌であることを話すと大変驚き「長生きして欲しい」と声を詰まらせていました。独立しているもののすぐにでも実家に戻ってくるとの話を聞けて私が居なくなっても息子が妻を守ってくれると安心したのを忘れられません。義理の兄と弟には「悪性胸膜中皮腫という病気に罹り余命は長くなさそうです・・・妻のことをお願いします」と連絡をしました。

妻は5年前に乳がんに罹患し、一昨年には関節リュウマチを患い一時は起き上がることも出来ず痛みに耐える日々でしたが、何とか日常生活が送れるまで回復してきたところに私の悪性胸膜中皮腫の罹患を知ることとなりました。

一日でも早く治療がしたい

家族のため一日でも早く治療がしたい、7月に生まれてくる孫を抱くことを目標にセカンドオピニオンのことを考えることなく市立病院で治療を受けることにしました。主治医は、肺がん治療の経験豊富な呼吸器内科部長です。優しく語りかける誠実そうな主治医に託そうと思いました。

確定診断から1週間後の1月25日に免疫療法(オブジーボ+ヤーボイ)を開始しました。空咳はだんだん酷くなる一方で胸痛や動悸、息切れが起こるようになっていました。知人から携帯酸素を勧められ使ってみましたが、吸引しようとすると咳込んで全く使うことが出来ませんでした。

話をしようとすれば空咳が出て、車に乗るだけで息苦しくなって飛び降りたりしました。また、コンセントを抜く、床に落ちたものを拾うなど身体を屈めただけで息が出来ず空中を搔きむしることもありました。急激な身体の変化に心が付いていかず、死に向かっているという思いだけがどんどん大きくなっていきました。

免疫療法開始後1週間程で全身にかゆみや発疹が出て、倦怠感や息苦しさも増してきましたが、2月7日に胸水を抜くと息苦しさはかなり改善されました。しかし胸水はすぐに溜まり息苦しさ、呼吸困難などが再び酷くなったため、2月13日に胸膜癒着術を行うことになりました。廃液ボトルに溜まっていく胸水は赤黒く澱み、中皮腫の恐ろしさを誇示しているように見えました。

入院中、免疫療法の副作用でかゆみはますます酷くなり、夜はベッドに保冷剤を敷き、睡眠導入剤も服用しましたがほとんど寝られませんでした。幸い胸膜癒着術は成功し発熱することもなく1週間後には退院することが出来ました。しかし退院したにも関わらず、少し動くと動悸、息切れで、身体を動かすことも大変で、人生の張り合いでもあった趣味も全て止めざるを得なくなりました。

3月に入ると身体が更にだるくなり食欲も全くなくなりました。これも中皮腫の影響なのかと思い食事は無理やり飲み込んでいましたが体重は59㎏から51㎏台に落ちました。

緊急入院

3月8日にオプジーボ投薬のための血液検査をしたところ、ほとんどの項目にHやLが付いており、特に肝臓に関わる項目は基準値の100倍程高くなっていました。主治医は「あまり見ることのない数値です。今すぐ緊急入院してください」、「オプジーボの投薬はどうなりますか?」との問いに、厳しい表情で「何を言っているんですか。死んでしまいますよ」と厳しく叱責されました。

緊急入院時に、主治医から「万が一呼吸が止まった場合、高度医療機関に搬送しますがよろしいですね⁈」との確認までされました。緊迫した緊急入院でしたが、肝生検後のステロイド(100㎎)の投与で日に日に肝臓の数値も正常に近づき、倦怠感や食欲不振も解消されていきました。3週間の入院でしたが、主治医の的確な判断と治療で一命をとりとめることができました。

免疫療法の副作用がきつく死の一歩手前までいきましたが、腫瘍が小さくなっていたのは飛び上がるほどの喜びで、根治した訳でもないのにその時は妻と二人手を取り合って喜びました。しかし副作用のため免疫療法は続けられなくなりました。先生からは「効果は長く続きますから」と言われ現在経過観察中です。今後、二次治療はどうなるのか、経過観察中に出来ることはないのか不安は尽きません。

公務災害での認定を目指して

私は市役所に入庁し44年間、化学技術職員として勤務してきました。まさか退職後に中皮腫を発症するとは思ってもいませんでした。あの時のアスベストが、と思っても今更どうにもなりません。

現在、労災(公務災害補償基金)の申請をしていますが、公務員の場合は労災の認定が非常に困難だと聞いています。同じ中皮腫になりながらなぜ認定基準に違いがあるのか、どうして公務員だと認定されにくいのか。被害者救済という趣旨を忘れたかのような、不公正な認定基準による裁定に大きな疑問と怒りを感じています。

アスベストという言葉は知っていても悪性胸膜中皮腫という病名を知らないところからのスタートでした。中皮腫サポートキャラバン隊のYouTubeの動画、ブログで患者・家族の皆さんの生きざまを知ることで大きな励ましを得ることが出来ました。そして「すぐに死ぬんだ」との気持ちが「もっと生きたい」へと変化してきました。

今後、どうなるかは分かりませんが、中皮腫アスベスト疾患・患者と家族の会、ひょうご労働安全衛生センター、中皮腫サポートキャラバン隊の皆さんの支援を受けながら、寛解と労災認定の獲得を目指して歩んで行きたいと思います。

患者歴わずか5カ月ですが、5年10年とこの手記を綴ることが出来るようにそして、皆さんに手記の続きを読んでいただけるように生き抜きたいと思っています。

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