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悪性胸膜中皮腫で他界した父との別れ(遺族手記)

公開日:2024年1月14日

執筆:神奈川支部 前田里佳

※本執筆は、患者・家族の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

悪性胸膜中皮腫(肉腫型)の診断

2022年12月に77歳で悪性胸膜中皮腫により亡くなった父、髙岸達夫の闘病を振り返ります。

大学卒業後、製紙会社に入社し国内、海外と転勤を重ね定年まで勤務。退職後は地元の北海道に戻り母と二人で旅行を楽しんだり自宅の庭の手入れをするのが趣味でした。

2022年5月毎年受けていた健診で肺に異常が見つかり7月の再検査でアスベストに関連した病気の可能性を告げられ50年前に勤務先の製紙会社で石綿を扱っていたことを家族も初めて知り驚きました。

8月に悪性胸膜中皮腫(肉腫型)の確定診断で肺のリンパ節への転移もありステージⅢ。いつもは何でもネットで調べる父が自身の病気については一切調べようとしなかったようです。

何も話さず落ち込んだ様子でしたが免疫療法(オプジーボ+ヤーボイ)を受けられることを知ると治療に希望を見出したようで精神的に少し前向きになれたのかもしれません。

「自覚症状のない状態で早く見つかってよかった」と母は前向きに捉えていました。8月下旬から旭川厚生病院に入院し治療開始。

その頃、私は中皮腫サポートキャラバン隊のことを知り右田理事長にメールで労災のこと等も相談させていただきました。

心細い時に、温かい言葉を掛けていただきとても有り難かったです。

石綿ばく露と労災申請

しかし主治医から「労災は認定されるのがとても難しい。石綿健康被害救済制度と両方申請した場合、どちらも認定されないこともある」と説明を受けました。(本来は同時申請可能)

父も50年前の石綿ばく露の証明は難しいと思ったようで、この時点で労災申請は断念。私は「労災なのに労災申請しないのはおかしい!」と伝えたけど「金銭的なことよりも免疫療法の治療が受けられるだけでも有り難い。」と言う母の気持ちにそれ以上何も言えず大切な時間を穏やかに過ごせることを優先してほしいと思いその後父が亡くなるまで労災については触れないままでした。

もしこの時、医師が労災申請に消極的・否定的な説明をしていなければ確実に違う流れになっていました。

病院や医師の言葉ひとつで患者や家族の救済に不利益が生じるのはあってはならないことです。社会保障について病院や医師は正確な情報を患者へ伝えてほしいです。

父が亡くなった後に今後の生活や年金のことを母がぽつりと呟いたので「今からでも労災申請の相談してみようか」という流れで以前、ご紹介頂いていた患者と家族会へご相談しお力添えいただきお陰様で2023年10月に労災認定されました。患者と家族の会の存在がなければ、労災申請を諦めていたと思います。心から感謝しております。

父の命は戻らないしアスベストさえ無ければ・・・という悔しさや悲しさは決して消えませんが労災認定により父の死が職務によることが認められたこと、今後母が安心して暮らせることで気持ちが少しは和らぎます。

大腸・脳への転移、家族の時間

父の闘病に話を戻します。

入院中に大腸への転移が確認され予定より入院も長引き心配しました。退院時に電話をした時は今まで聞いたことないほど声に力が無くて驚きました。貧血でしんどいようでした。

その後輸血により、体力も回復し10月に私が会いに行った時は空港まで車で送迎してくれ食欲もあり一緒に外食を楽しみ、副作用の痒みは辛そうでしたが、思っていたより元気そうだったので少し安心。細くシワシワになった腕を見た時は切なくなりました。

3日間実家で過ごし空港で「元気でね!」と別れましたが、この時ほど心の底からこの言葉を口にしたことはありませんでした。

その後「肺の腫瘍が小さくなっている!」と嬉しい報告もあり、このまま落ち着き良い状態が続くかも!と期待しましたが平穏な日々は長くは続かず。

11月16日、「脳に転移がみつかった」と母からの連絡。これまで気丈にしていた母が号泣。数日前に麻痺のような症状が出たこと、治療が中止になった事、即入院を勧められたことを知らされました。まさかの脳転移に絶望的な気持ち。余命一ヶ月。難しい病気だと覚悟はしていたけど、こんなにも早く進行するとは思わなかったです。

この残酷な現実を父はどんな気持ちで受け止めたのだろう。どんなに悔しいか・・・。どんなに悲しいか・・・。

考えただけで胸が張り裂けそうで今でも思い出すと涙が出ます。この時に父も自分の死を覚悟したのだと思います。すぐにでも飛んでいきたかった。

翌週末、夫と息子も一緒に実家へ会いに行きました。弟も駆けつけて久しぶりに家族全員が揃いました。

11月は両親の77歳の誕生日でもあり、ケーキを囲んで喜寿のお祝い。これが最後の誕生会だと思うと父の姿を見ているだけで、涙腺が崩壊しそうで泣かないように必死で気を張っていました。1泊2日の短い時間だったけど、一瞬一瞬が本当に貴重で宝物のような温かい時間でした。

このまま実家に残って両親を支えたかったけれど「また会いに来るね!」と伝え後ろ髪を引かれる思いで帰路へ。

その後も輸血に頼りながら自宅で過ごし、痛みや息苦しさに苦しむこともなく、食欲もあり、「年を越せない」という医師の言葉が間違えであればよいのに・・・。このまま春まで過ごせるのでは・・・という思いと、いつどうなるかわからない・・・と言う緊迫した思いが交差していた日々。

12月10日、「2日前から食べられなくなった。もうパパ力尽きたのかもしれない」と連絡があり大慌てで実家へ向かいました。ベッドの上の父の顔を見た瞬間、もう回復の見込みがないことを察しました。夜中、異変を感じて起きると洗面所で動けなくなった父がいて動揺しました。

もう自宅で過ごすのは限界なのだろう・・・。翌朝、病院へ行く前に、着替えを手伝ったり、爪を切ってあげたり今まで一度もやったことのないことをして触れ合う時間を持てたのは幸せでした。もう家に戻れる状態ではなくそのまま入院。

コロナ禍で面会不可の状況でしたが病院の配慮で毎日15分間の面会が許可され、いっぱい、いっぱい「ありがとう」を伝え、日に日に弱っていく父の姿に、別れの覚悟もしっかりと出来ました。

入院から5日目の夜にそっと一人で息を引き取り4ヶ月の短い闘病生活が終わりました。

中皮腫が治る病気になってほしい

命の終わりに向き合った尊い体験は一生忘れません。砂時計の砂が落ちていくような命のカウントダウン。サラサラ落ちていく止めようのない砂に狼狽えながらも、その動きをしっかり目に焼き付けました。

とても切ないけれど、かけがえのない時間を過ごせました。終わりに向かいながらも最後まで懸命に生きようとする肉体。その尊い姿を見せてくれたのは親としての最後の役割なのかもしれません。病気が判明してから私にとって父がどれほど大きな存在か気づきました。

「死」は自然の流れの一部で誰もが避けられない。大切な人との別れは辛いけれど肉体が消え、姿は見えなくてもその存在は魂として在り続けることを

父の死から体感しています。

「死」は悲しいだけでなく、新しいカタチでの繋がりや気づきを与えてくれます。父の死は今も私へ大きな学びを与え続けてくれ、見えなくてもいつも側で見守ってくれる存在を感じるだけで、温かい気持ちになります。

アスベストにより父が健康と命を失ったことはとても悔しく残念ですが母に一生懸命看てもらい、家族に感謝され、周囲の方々に惜しまれながら、少し早いけれど旅立った父は幸せだったと思います。

アスベストで辛い思いをする人はもうこれ以上増えてほしくない!

中皮腫が治る病気になってほしいと心から願います。

中皮腫遺族の手記

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