お知らせ

お知らせ

悪性胸膜中皮腫はコロナと共にやってきた(遺族手記)

公開日:2023年6月13日

※本執筆は、患者・家族の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

執筆:関東支部/胸膜中皮腫遺族 山中美保子

自覚症状のない中、検診をきっかけに突然の診断

中皮腫の確定診断をされてから2年3ヶ月の闘病の後、2022年6月に夫は60歳で亡くなりました。再発確認後、わずか3ヶ月であっという間のことでした。

夫と私は代々木のデザイン専門学校で知り合いました。夫は製図コースを卒業後、更に亀戸の職業訓練校でレタリングを習得しディスプレイの会社に就職しました。私も夫と同じ学校を卒業後に希望する建築パースを描く仕事に着く事ができその後結婚したのですが、夫の会社で独立する方が相次ぎ夫も独立する事となり、私は仕事をサポートする為に一旦ディスプレイの仕事をする会社に就職し、パソコンで製品を作る技能を習得しました。その当時私たちにとっては高価すぎるパソコンとカッティングマシーンを購入、仕事はお盆もお正月も無いくらい忙しく順調で、独立した仲間たちと家族ぐるみでキャンプに行くのが1年に1度の楽しみでした。夫は制作物を取り付ける所までやりましたが、私は内製がほとんどではありましたが、人手が足りない時は一緒に現場に入り作業したことも度々ありました。

その後しばらくして仕事の流れがカッティングから印刷へと変わり、大型インクジェットマシーンを導入してからも暫く順調だったものの、取り付け品は支給されるという流れになり、夫はほとんどが現場での作業へと業態が変わりストレスは相当に溜まっていた様でしたが、予定の立つ生活に変わった為、この頃には旅行など頻繁に行ける様になりました。

夫は建設組合に入っていたので一年に一度の健康診断は必須となっており、2020年3月にはいつもの総合病院で検診を受ける予定としていました。この頃は世界中がコロナという得体の知れない病に怯えていた時で、検診予定の病院からコロナの患者を受け入れる可能性があるので検診はすべてお断りするという連絡がありました。仕方がないので組合の検診をしてくれるクリニックを見つけて行くと、胸部レントゲンでほんの僅かな異変をみつけて頂き、近くの大学病院を紹介されCT,PET-CTの結果、全身麻酔による胸腔鏡手術で生検することになってしまいました。夫には全く自覚症状が無かったので、夫も私もこの様な大変な検査をしなくてはいけない事が信じられない気持ちで一杯でした。この生検後すぐに私は面談室に呼ばれ悪性胸膜中皮腫と告げられましたが、それがどんな病気かもわからずすぐに検索してみると予後が非常に悪いがんであることに愕然としました。術後、看護師さんが私に対して大丈夫ですか?と、とても心配そうに声をかけて下さったのはこんな理由だったのかと、検索後にわかりました。まだ麻酔が覚めきらず朦朧としていた夫と面会した時に、私は結果が中皮腫とだけ言ったのですが、もちろんその時の夫はまだ中皮腫という病気がとても手強いものだとは知りませんでしたので、肺がんでは無かった事にとてもホッとしていた様です。

余命2年と宣告

退院後の診察で余命2年と宣告され担当医師は手術はできないと言いましたが、中皮腫サポートキャラバン隊のzoomサロンに参加されている方には手術された方も何人かおり、セカンドオピニオンを受けてみることにしました。その結果、今の状態なら胸膜剥皮術ができるということでしたので、即座に転院を決意しました。

手術まで約3ヶ月間の時間があったので、がんが進行するのではと気が気ではありませんでした。コロナの緊急事態宣言が出ており気分転換に外出もままならず、余命宣告までされてしまったので夫の実家のある青森へ行きたかったのですが、小さな町なので夫の実家に東京ナンバーの車が駐車していると嫌な思いをするのでは?それよりも夫の体に何かあったら手術前なのに大変なことになるとの思いから、ほとんど出かける事もなく家で過ごしました。ただ一度だけ伊香保温泉の少し贅沢なホテルに一泊旅行をしました。伊香保の長い階段を最後まで登れて、夫も満足な旅行になった様です。しかし、それからもコロナ禍が続き温泉にはこれ以降は行くことができなかったのが残念です。

手術とその後の生活

やっと手術の日が来て、手術時間は予定より短い5時間でした。相変わらずコロナの影響で面会が厳しく制限されており、術後にICUで会えたのは約5分間だけでした。枕元へは近づけずベッドの足元から1m位離れた場所から声をかけました。本来なら上半身を高くするらしいのですが、血圧が低く真っ直ぐ寝ている状態でしたので顔が見えずほとんど様子がわかりませんでしたが、夫は苦しいと一言だけ言いました。翌日には個室へ移されましたが、面会が全くできないので夫からのメールが待ち遠しかったです。最初は順調に回復している様だったのですが、肺からの空気漏れがあり胸膜癒着術をする事になりました。4日間癒着術をしてやっと空気漏れが治ったのですが、それ以降体調が思わしくなく、退院時には熱もあり体調は最悪な状態でした。夫はもう少し入院していたいとお願いしたそうですが、それは叶いませんでした。

自宅での療養開始となりましたが、酷い寝汗と熱や痛みが続き、夜昼なく着替えや氷枕の替えをして、手術をしたら良くなっていく一方だと思っていた私は精神的にも体力的にもボロボロな状態になってしまいました。ですが、キャラバン隊の方やご家族の方から電話やメールで支えていただき何とか介護を続けられました。今思い返しても、支えてくださった方々のお陰で夫の介護を乗り切る事が出来たと思います。

再発・転移

夫はそんな状態からも徐々に回復していき、毎日散歩したり時には自転車や小さなバイクに乗れるまでになり、術後から一年経ちそろそろ車で遠出もできるかなと思っていた2022年10月頃、話すと咳き込む様になりました。階段も以前より息切れがして登れなくなっていったのです。経過観察中の主治医に2ヶ月おきの通院の度に訴えましたが、CTや血液検査に異常がないことから術後時間が経ってから咳が出てくる人もいるからと毎回流されるだけでした。今になって思えば術後1年経ってもPET検査をしておらず、患者側から強く検査のお願いをするべきだったと後悔ばかりが先に立ちます。

そして、徐々に喉につかえ感が出てかかりつけのクリニックで胃カメラをした結果、食道が肺側からの腫瘍に圧迫されていたことが判明しました。2ヶ月前のCTでは異常なしと言われていたのにです。ただただ二人で呆然とするしかありませんでした。その後呼吸器内科に変わりオプジーボとヤーボイを開始しましたが、期待とは裏腹に食道を圧迫する腫瘍は縮小してくれませんでした。肺やリンパにも数箇所転移していて、食事もすんなりと通らなくなっていき体力も低下し抗がん剤は中止となり、自宅で緩和療養という事になりました。次第に固形物はおろか水分までも飲み込む事ができなくなったのですが、私が作ったレモン味のかき氷を口に含み、おいしいと言って嬉しそうに笑った笑顔が忘れられません。

昨年の3月はまだ桜を見られる体力がありましたので、二人で満開の桜を見る事ができました。その時に夫は、来年の桜は見られないかもしれないなとポツリと言いました。まさかそれから3ヶ月後に旅立ってしまうとは、その時の私には想像もできない事でした。

アスベストさえなければ

夫も私も手術をすれば数年は再発しないのではないかと考えていましたので、余命宣告どうりとなってしまったことは残念でとても悔しいです。アスベストさえなかったらこんな事にはならなかったのにと。しかし、闘病中から夫や私を支えてくださった中皮腫サポートキャラバン隊の皆さんがいてどんなに心強かったでしょう。そして今では何でも話し合える患者さんのご家族や遺族さんがいます。中皮腫になったのがコロナ禍でしたので直接お会いできる様になったのはつい最近ですが、初めてお会いしても皆旧知の友人の様に打ち解けられるから不思議です。夫が繋いでくれたこのご縁を大切にしていきながら、これからも様々な活動に協力させて頂きたく思います。中皮腫患者さんが完治出来る治療が1日でも早く出来ることを心から願っています。

24時間365日受付

中皮腫・アスベスト被害全国無料相談

当サイトへのご相談・お問い合わせはこちらからご連絡ください。

中皮腫・アスベスト被害全国無料相談

0120-117-554

24時間365日受付