父看病記

井本寛子

《アスベスト》

 「お父さん、学校の講堂の天井から白い粉が落ちてくるのだけど?」

 「それは、アスベストといって発癌物質と言われてるやつやわ、さわったらあかんで。お父さんらは仕事の時、そやからマスクしなあかんのや。」と小学4年生だった私は父から「アスベスト」という名前を初めて聞いた。それから約25年後、父はそのアスベストが原因とされる悪性中皮腫で逝ってしまった。父は闘病中、と言っても診断名も原因も特定されず病院を転々としていた頃「お父さんは何も悪いことしてないのに…ほんまひどい話や」と言っていた。

《悪性中皮腫》

 父の闘病は、2003年3月に始まった。いや、前兆はその前年の6月に職場の健診で「肺異常陰影」という結果からだった。東京の病院に勤務する私の元に母から「お父さんが肺がんかも、しれへん」という連絡が入った。私の知識では、肺がんであれば早く手術しなくてはと思った。診断は比較的容易と認識していたので、近くのかかりつけの医師に受診するように話した。結果、「仕事の埃が、たまっているだけ」と言われたと、母から連絡があった。それは良かったと胸をなでおろした。「じん肺-」その頃の私は、父に自覚症状が無かったこともあり、更に調べる必要があるとも思わなかった。それから2ヶ月、夏に父に会ったとき、父は「最近お父さん、体の左側だけ汗かいて冷たいんや。」と言った。触ると、確かに右に比較して冷たくしっとりした感触だった。「なんでやろう」と言いつつその場はそのまま過ぎた。そして、その3ヶ月後、今度は「最近、なんか左側に体が傾くんやけど。」と父は言ってきた。私は父が怖がりで心配性であることを知っていたので「大丈夫や」と言って笑って過ごした。それから2ヶ月、今度は「最近肩甲骨の下が痛い。」と言ってきた。さすがに、「痛い」といわれると看護師である私は心配になり、再度かかりつけの病院に行くように話した。結果、「肋間神経痛」ということであった。実は、その前年に帯状疱疹を発症していたためであった。肺の陰影は特に変化がないということであった。私は、「本当に帯状疱疹?の後遺症」と不安を持ちつつ、陰影に変化が無いということで「悪性疾患」ではないことを信じていた。そして、決定的な症状が出現したのは2003年3月のことである。父から「息苦しい、なんかこのままじゃ死にそうじゃ。」と電話が入った。私は、居てもたってもいられず、上京するよう父に話した。肺疾患は問題ないはずだから、循環器系かもしれない…。そんなことを想像しつつ、外来受診の手続きをした。私の勤務する病院では初診を受けないと専門医にかかれないので、上京した次の日に初診外来を受けた。その初診を担当したのはラッキーにも呼吸器専門医だった。父の受診日に仕事をしていると私の院内PHSに担当医から電話が入った。内容は「ちょっと来てください」ということだった。駆けつけると肺CTに巨大な腫瘍像が写っていた。私は「えっ」と心で叫んだ。これが、「埃??」と思ったからだ。受診の結果、即入院、精密検査となった。初回入院の検査では、これといって確定診断はつかず、あとは開胸手術だけという医師の見解だった。しかし、父は「なんか分からないから手術なんて納得できない」と退院してしまった。そのような中、医師は3年ほど前からの胸部レントゲン上での腫瘍の変化は殆ど見られないので悪性は否定できないが、しばらく外来で診ましょうと言ってくれた。しかし、それから半年後、父のCTに変化が見られた。脊椎への腫瘍の進展だった。父は「なんともないと言ったやないか」と怒った。所見はいわゆる”手遅れ”だった。私は、4月に開胸手術を受けるよう説得すべきだった、とても後悔した。医師に診断名を確認すると「多分、肺がんだったのだろう?」と言った。「だろう??」とまた心でつぶやきつつ医師に今後の治療について確認した。父は「そんなあてにならないことにつきあっていられない。」と半ば憤慨して帰省してしまった。その後、幾度となく、私は母から「父が痛みで起き上がれない」と緊急の連絡を受け実家に駆けつけた。その後、いくつかの病院を転々としながら父をようやく説得し、再び上京して再度精密検査を受けた。その頃には、父の胸の痛みは通常の痛み止めでは効かなくなっていた。それからまもなく、父の病気の診断名を聞かされた。実に、診断がはっきりするのに1年以上かかった。医師は「非常に悪性度の高い悪性中皮腫です」と言った。私は医療人でありながら今までそのような病気を知らなかった。医師に「なんですか、それ?」と聞き返すと、「当院でも年間1~2例の珍しい病気です。通常、診断がつく頃にはかなり病気が進行していることが多いのです。アスベストと関連があるようです。」と言った。

《闘病》

 その日から、私と家族は父の治療をどうするか、気弱な父に病名を告げるべきか、父の治療を実家のある病院でするべきかどうかなどを考えめぐらせた。また同時に、中皮腫がどんな病気なのか、なぜこんなにも長い間診断がつかなかったのかを調べた。しかし、情報が少ない。インターネットでヒットするのは7件、医学書を調べても数行、医師に確認するも「進行の非常に早い病気、治療法が無い。」という情報が得られるだけであった。

 父の治療は、「おまえがおる方がいい」という父の一言で私の勤務する東京の病院で受けることを決定した。父は入院後、痛みの緩和療法として放射線治療を受けることを勧められた。また、疼痛コントロールも同時併行した。コントロールに3週間かかった。その後、治療は続き放射線療法と薬物投与で、6週間の治療を終える頃には痛みは殆ど無くなっていた。しかし、モルヒネ製剤の副作用である便秘、嘔気、放射線の副作用である食欲減退と倦怠感、父は日に日に痩せ、気力が無くなっていくようだった。治療が終了した直後、「田舎に帰りたい。」と父は言った。また、同時に抑うつ症状も出現し「眠れない」と毎日のように言っていた。医師から、眠剤や抗うつ剤の処方を受けた。その後、父の病状は悪化の一途を辿った。帰省直後は、抑うつ症状と食欲不振、しばらく経過すると体重減少が重なり、筋肉隆々としていた父の面影は無くなり、日常生活も介助が必要になった。特に、抑うつ症状が強く、母のつきっきりの介護が必要になった。一方、私の方は健康食品を検索しては服用させ、実家と東京を往復する看病生活が始まった。母は、食べられないという父に流動食を作り、眠れないという父に付き合い外にドライブに行き、人に会いたくないという父を気遣い近所の人に会わないで住むよう病院に通った。体力が極度に落ちないよう寝室とトイレの距離を計算したりしながら父の療養生活を支えた。しかし、治療を受けて3ヵ月後の10月頃には父の食欲は更に減り、体力も減退しトイレに行くのがやっとになり、転倒の危険があるのでトイレに近い部屋に移すよう私は母に連絡した。母は「そんなことしたら体力が落ちる。」と言った。母は、父に死が近づいていることを察しながらも信じたくないようだった。その気持ちと裏腹に父の体には明らかに限界が近づいていた。数歩動けば肩で呼吸、脈は120回を打っていた。母も介護生活で十分な睡眠を取れず、疲労困憊していたが、母の介護を替わるのは容易ではなかった。介護生活を通して父がどのようにすれば気持ちが落ちついて過ごせるか、どうすれば少しでも食事を摂れるかなど母にしか分からない不思議な”間”と”ペース”があった。 私は、父に残された時間を大切にするために、その”間”を大切にしなくてはと思い、担当医にも「自宅で看取る」決意を伝え、訪問看護を受けた。病院では、その微妙な”間”を感じ取るのは難しいと感じたからである。

 父の逝く1週間前、病院で受診した。レントゲンで患側の胸水貯留が認められた。私は「あぁ、もうその時は近い」と感じた。「お母さん、今日は私代わるからゆっくり寝て。」と言い、半ば強引に私は父の隣で床についた。もしかして、父と眠るのは最期かもしれないと直感した。父の大きかった背中はあまりにも小さく、布団をかけているとどうしているか分からないほどだった。私は、父の背中を見ながら涙を流した。「お父さん長生きしたいんや」と笑顔で話した父、病気したら大変やからとこまめに健診を受けていた父、「なんでこんな目にあわなあかんのや」と涙した父、そんな父が思い出された。父はその1週間後、帰らぬ人となった。

《労災の申請》

 「アスベストと関係するようです」医師のその言葉に、その直後から私はインターネットを毎日のように検索した。そして、「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」に出会った。その情報から労災の申請ができることを知り、電話をしてみた。詳しい相談はEメールでと言われ、神にもすがる思いでEメールを送った。すぐに名取先生から返事が返ってきた。今までで一番分かりやすい説明で、家族への労わりも感じられた。本当に嬉しかった。アスベストの危険について認識がある父が、健診をこまめに受けていた父がどうしてこんなに早く死ななければならないのかを公表したいという強い思いを感じ、労災申請への一歩を踏み出した。しかし、手続きは容易くはなかった。書類の記入方法、申請方法、事業主とのやり取り、どれをとっても大変であった。介護生活で心身ともに疲れた母には、この煩雑な申請は難しい、30代の私だからできるとも思った。その間も、分からない点には素早くEメールで対応してくださった。また、Eメールだけではとお忙しい中、直接会って相談にも乗って頂き、関西の片岡さんにもご連絡してくださった。おかげで、父の亡くなる前に労働基準局に交渉に行くことができた。残念ながら父の生存中に認定を受けることができなかったが、この6月に労災の認定を受けることができた。

《看護師としての娘のつぶやき》

 父は健診をこまめに受け、看護師の私のアドバイスも素直に聞き、健康には人一倍気を付けている人間だった。文字通りの一家の大黒柱風で、家族を一番に思いやり大切にした父である。また、体も丈夫で、70歳という年齢の割には筋肉もあり、活発で風邪ひとつひかなかった。その父が、結果的に亡くなる5ヶ月前まで病名が分からず、1年半という長きにわたり想像を超える痛みに絶え、病名を知ることも無く、あっという間に亡くなった。父は無念だったと思う。父自身はアスベストの危険度を知り、勤務先の指導する粉塵用マスクでアスベストを防御していると信じていたからだ。一方、病気に関しては、社会的には情報が少なく、治療に関しては有効な手段が無い。家族は、悲しみと悔しさをどうすればいいのか途方にくれ、私自身も医療人として無力感を感じた。

 そのような状況の私達家族には、「中皮腫・アスベスト疾患患者と家族の会」及び「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」の存在だけが一筋の光だった。私達は本当に助けられ、癒された。そして、父の逝った後も、母は、家族の会のお陰でとても元気になった。

 最近、アスベストの危険性が報道され、世の中に認識されつつあるが、それにより、有効な治療法が発見されることを強く願い、アスベストが1日も早く全面禁止になることを強く要望する。

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