クボタとの交渉中の思い、
そして母への報告

荻野ゆりか

 私は妹が産まれる小学4年生まで、一人っ子で甘えただったので、毎晩母と一緒に寝ていました。ところがある日、母のお腹の中に赤ちゃんがいることを知らされ、私は寝相が悪いため仕方なく自分の部屋でメソメソしながら眠りについたのを覚えています。あれから約20年の月日が流れました。私自身も娘を持つ母となって幾分強くなったかも知れません。しかし、「交渉委員をして頂けないですか?」とのお話を伺った時には、本当に戸惑いました。私なんかに務まるのだろうか、もっと適任の方がいらっしゃるのではないのだろうか・・・。不安がよぎりましたが母の為、妹や弟たち家族の為、そして同じ被害に遭われている大勢の方たちの為に、何か少しでもお役に立てたらと思い引き受けさせて頂きました。

 交渉の前に2回、委員10名で集まり要望書について色々議論しました。最終的にはスピーディに解決するために駆け引きなし、一発勝負で!という片岡さんのお言葉で、皆さん団結して交渉に臨みました。クボタとの最初の交渉は、クボタ側と交渉委員側との間で温度差があると感じました。しかしこの差は回を重ねるごとに少しずつではありましたが縮まっていったように思います。後もう少し・・・という時に、前田恵子さんの訃報のお知らせがありました。本当に、本当に残念でなりません。お葬式に参列させて頂きましたが悲しいやら、悔しいやら腹立たしくもあり涙が止まりませんでした。

 私の母は中皮腫と診断されてから2004年7月に亡くなってからも、しばらくどこでアスベストを吸ったのかさえ分からなかったのです。アスベストを扱う仕事なんて全くしていない、母は何度も悩んで原因を探していました。もちろん周りの家族も同じ気持ちでした。誤診もあり何軒もの病院をたらいまわしにされ、中皮腫というとても稀な病気だと告知された時には、また誤診では?と疑った程です。結局はっきりした原因が分からずに母はこの世を去ってしまいました。周りも辛かったけど母が一番無念で辛かったと思います。それから残された私は、母が亡くなってからも毎晩悩み続けました。そんな一年ほど経ったある日、信じられない報道が目に飛び込みました。あんなに稀といわれていた中皮腫という病名がテレビでやっている・・・驚いてテレビに近づくと、3人の方が記者会見をされていて、母の生まれ育った尼崎が映っていました。私たち家族はあの報道のお陰で、やっと母の原因が分かったのです。

 前田さんにはそのお礼を交渉が終わり次第、結果と共にお伝えしようと思っていたので、私はお葬式が終わるまで泣き止む事ができませんでした。

 結果的に交渉の最後となった3月31日、完全にクボタが責任を認めていない事についての議論が交わされました。母はおそらくクボタが責任をはっきりと認めた上で謝罪して欲しいだろうとずっと考えていました。私もそうです。お金を積まれても母は戻らない、穏やかな生活も元通りになる事はないのです。妹の「お金をもらっても誰がご飯作るの」という言葉は当事者の私でさえ、心に深く突き刺さりました。

 クボタ側の姿勢は最後まで変わる事はありませんでした。救済金支払い規定の主旨についての文面も細かく話し合いがありましたが、この遠回しな文面でクボタの誠意を汲み取ったら良いのでしょうか? そして決して安くはない、この救済金の額がクボタの誠意だと考えれば良いのでしょうか?はっきりした責任を認めて頂けないまま、救済金を受け取るのは非常に複雑な気持ちです。

 この3日後、母の納骨を行いました。交渉がこの日までに終わったのは偶然ですが、母はずっと交渉を見守っていてくれたように思います。

 お母さん、原因が分かってちょっとスッキリしたよね。でもまだ終わったわけじゃないから、前田さんたちと一緒にずっと見守っていてね。これからもお母さんとみんなの為に頑張るから。

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