クボタショックから3年の
尼崎集会に参加して

早川 義一

 平成16年1月、担当医より「悪性胸膜中皮腫」と確定診断を告げられ、2月に10時間に及ぶ右肺全摘手術を受け、放射線及び化学療法へと治療が進み9月に退院、15年12月の検査入院を含め延べ10ヶ月の入院生活でした。

 退院後友人を通じて、同じ病で苦しむ前田恵子さんのことを知り、前田さんを通じて、患者の土井雅子さん、安全センター片岡さん、古川さん、飯田さんと劇的な出会いが続き、アスベスト被害を国や企業に責任を問う行動を共にする事となりました。残念ながら今は、御二人とも悔しさを握り締めたまま亡くなられました。この集会には最初の告発者3人の内の残された1人として、亡くなられた2人の無念・悔しさを胸に思い参加しました。

 中村会長の挨拶があり一気に会場は熱気に包まれていくのが感じられ、アスベスト被害者の報告の中で、私も被害者の一人として3年をふりかえって報告させていただきました。

クボタとの交渉、一気に決着へ

発表する早川義一さん(左)

 一番大きな出来事は、何といってもクボタとの交渉の経緯だと思います。私たち3人はクボタに対して情報開示を求めました、開示された数字に驚きました、多くの従業員さんがアスベスト被害で亡くなっているではありませんか。私たちは聞きました。「塀の中でこれだけ多くの人が亡くなっているのに、塀の外に被害があるとは考えなかったのですか」……「思いもよらなかった」と、驚きの様子がありありと見えました。

 しばらくして会社側から見舞金を出したいとの申し出があり、その受け渡し日が平成17年6月30日——この日を境に日本中がアスベスト問題一色に染まり、私たちは多くの人々の助けを頂き、多くの人達の協力を得て、その思いが世論を動かし、企業を動かし、国をも動かしました。

 平成17年12月クボタ社長の謝罪があり、救済の早期解決に向けて動き出し、又同時に国も石綿救済法成立に向けて動きました。

 翌年クボタ側から補償交渉の打診があり、支援団体代表3名と患者遺族の代表7名を選び3月2日第1回目の交渉が、旧神崎工場跡(現阪神事務所)で緊張感一杯の中開かれ一気に4回目の交渉3月31日で最終決着、ウソのように早い決着でした。

 私たちは、大企業を相手に一応の決着をみたわけですが、周りを見渡せば全国各地に埋もれていた被害者の方々が苦しみの声を上げられていました。責任企業が小さい方々、相手にする企業すらない方、すきまの無い救済をうたい文句にした新法からも置いてきぼりにされた方々、法も企業も被害者に平等ではありませんでした。

風化させず、一日でも長く

 名取先生のあんまり明るくない現状報告を聞きながら、気持ちも新たにこれからも国の不作為を追及し、責任を認めさせ救済法が本当のアスベスト被害救済法になるまで追及の手を緩めず、ノンアスベストの世の中になるまで、私は一日でも一時間でも長く生き抜くことで、悔しさ一杯で亡くなって逝かれた多くの方々の無念さを少しでも和らげられるのではないかと思うと同時に、「ぜったいに風化させてはいけない」という思いを強くさせた集会でした。

 最後に、私の近況ですが2ヶ月に一度の検査通院は続いています。これといった治療はしていませんが、肉体的にも精神的にも安定した状態が続いています。入院中に、遠く北の大地、北海道で生まれた孫達に先日も会いに行ってきました。可愛い孫を抱きもっともっと生きて、孫の成長を見届けたいと、生きていく意欲がますます強くなりました。

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