クボタショックから2年

古川和子

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尼崎集会を終えて

 クボタショックを風化させてはいけない。クボタショックから学んだことを他の被害者の方たちの救済の教訓にして今後に伝えてゆかなければいけない。その様な思いから決意したこの集会だ。

 そして6月30日「クボタショックから2年・写真と報告でつづるアスベスト被害尼崎集会」は始まった。(写真展はその前日から行われていた)集会の参加者は我々の予想を遙かに超して、準備していた資料も足らなくなった。続々と詰めかける参加者が会場には入りきれなくて外にまで溢れ出してきた。後で聞くと初日は300名、二日目は200名、延べ500名にも及ぶ多くの方が参加していた。

 患者と家族の会も全国の支部から多数の会員が駆けつけてくれた。中には、H17年10月8日の「患者と家族の会尼崎支部設立集会」に遠くから駆けつけて励ましてくれた会員さんたちもいて、その当時を思い返しながら互いに感無量の面持ちだった。

 尼崎の悲劇は「クボタに始まってクボタで終わらせてはいけない」と常に私は危惧していた。しかしこの集会の開催により、アスベスト被害の実態はその様に生易しいものでは無いことが再認識できたのだ。クボタショックにより「やっぱり…」と声を挙げた人々が各地から集った。横浜市鶴見区(旧朝日石綿工場)・岐阜県羽島市(ニチアス羽島工場)・奈良県王寺町(ニチアス王寺工場)・奈良県斑鳩町(竜田工業)・大阪府河内長野市(東洋石綿)・大阪府泉南市(旧三好石綿ほか多数の石綿工場)の近隣住民被害者が集会に参加した。

 そして他にも日本全国にはもっと多くの被害地域が存在していることを忘れてはいけない。

 多数の被害者を出したアスベスト関連工場の周囲には必ず、住民の被害が発生していた。

 アスベストを吸った場所により「労働災害」と「環境被害」と呼び名が変わっている。しかし、考えてみるとそのこと自体が問題なのではないだろうか。

 同じものを吸って、同じ病気になる。苦しみも悔しさも無念さもみな同じなのに補償が違う。

 労災以外の方の救済のために2006年3月に石綿による救済法が制定されたが、その中身はお粗末なものだ。それでも、何も無かった当時から見ればマシだ、という人もいる。確かにクボタショックが起こるまでは「なぜこんな病気に…」と言いながら本人も家族も苦しい闘病生活を余儀なくされていた。毎月の治療費の重みに耐えかねて安心して療養をする事も出来なかった、と語った方もいる。

 社会全体で石綿を広く使用して享受していたのだから、被害にあった方への救済も広く皆で行いましょう…というのが石綿新法の趣旨である。しかし、広く使用してきた結果、企業は多大な利益を享受したのだ。その利益の贖いに、人々は健康と命を差し出した。そして、その事実を知り得ながらも知らんふりしてきた国は全国民の命を守る義務を放棄してきたのだ。

 労働災害、環境被害と呼び名は違えども、間違いなく国と企業の犠牲になってきたアスベスト公害の被害者だ。人類史上例を見ない悲惨な公害は、その曝露原因を問うことなく、全ての被害者に心からの謝罪をしなければいけない。そのうえで全ての被害者を平等に補償しなければいけない。

 人々は天災に遭遇するたびに、自然の厳しさを知りその出来事を謙虚に受け止め、人間の英知を持って対応してゆく。
人災は人間の利己と傲慢さによって引き起こされる事が多く、そしてその解決に人々は勇気をもって対処してゆかなければいけない。

 一般の国民がアスベストの危険性を知らされないで使用し続けたことは「享受」してきたことにはならない。国と企業は勇気をもって自らの行為を反省し、謝罪し、償いを行わなければいけない。

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