クボタショックから2年

古川和子

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鳴り止まない電話

 29日の毎日新聞夕刊から始まって、関西労働者安全センターの電話は頻繁に鳴っていた。翌30日には朝9時に事務所に行くと、既に非常事態だった。3回線ある電話を3人の事務局員で対応した。しかし誰かの携帯電話が鳴ってそちらに対応すると、対応する事が出来ない一本の固定電話のベルは悲鳴に近い音で鳴り響いている。

 電話がかかるたびに、驚くような内容ばかりだった。「夫が中皮腫で治療しています」・「父が中皮腫で亡くなりました」…相談を寄せてきた被害者はあっという間に二桁になった。そして関西安全センターの電話と同じように、尼崎の飯田さんの携帯電話にも想像を絶する数で相談があった。当時の尼崎安全センターは「専従職員」がいなくて、他に仕事を持っている飯田さんが兼任していた。だから電話の連絡先は飯田さんの携帯番号が公表されていたのだ。

 同じように、東京の「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」にも問い合わせの電話が殺到した。当然、所長の名取医師、事務局長の永倉さんは殺人的なスケジュールを受け入れる事となった。我々ではなくて、尼崎市役所・保健所も降ってわいたようなアスベスト騒動に戦場となったと聞いた。

 そしてこの瞬間から、未曾有のアスベスト公害が白日の下に曝される事になり、飯田さんと予定していた「被害者発掘の為に尼崎市内の病院まわり」は必要が無くなった。

疫学調査

 連日の電話対応の中で、私達は疫学調査を奈良県立医大の車谷先生たちにお願いする事になった。遡る事半年前の1月5日の夜、尼崎において車谷先生と大阪府立公衆衛生研究所の熊谷課長を招いて、私達が調べている被害情報をもとに今後の疫学調査について相談していた。その当時は被害者がまだ数名だったので、今後の様子を見ながら…という事になった。しかし数十万人にひとりの発症率だといわれていた中皮腫患者が、29日の報道以来、限られた地域で数十人も発生している事が解かったので事態は急変した。車谷先生たちが調査を開始したのはクボタショックから一ヶ月後のことだった。8月のお盆休みも返上して連日の調査が続いた。私も可能な限り調査に同行した。

 調査の終了が夜の9時近くなる事もあった。

 「古川さん、どの様な生活をしているのですか?」とある時、車谷先生に尋ねられ「こんな生活ですよ」と私は笑って答えた。連日、朝から夜まで走り回っていた私の生活への疑問だったのだろう。しかし、その頃先生も昼間の大学の講義が終わると大阪まで出向いてきて調査をしていたのだ。後にこの調査はクボタに対してのみならず、社会的に大きな意義あるものとなった。

 一時は「本当にクボタのアスベストが原因なのだろうか? これほど多くの患者が発生するなんて信じられない。原因はウィルスか何かではないのだろうか」と調査に関わった私たち自身も不安になったものだ。

見舞金・弔慰金の支払い

 最初の3人に支払われた見舞金の制度は、暫くして新たな被害者の方たちに対して再開された。その時は8家族位だったと記憶している。クボタの部長達から、工場のアスベスト使用状況等が説明されてその後に個々のご家族の方たちの想いが語られた。10数年前に若くして夫を失い、幼子を抱えて苦労された方。妻を失ったが、その数年前に妻の弟も中皮腫で他界していたという男性。息子の苦しみの原因が解かったけれども息子は帰ってはこない、と嘆く老婆。ある会館を借りて支払いを行なっていたが、その会議室全体が涙と怒りに包まれた。以後、週に1・2回のペースで数家族単位の支払いが行なわれてきた。毎回、クボタの部長達は皆さん方のお話を個々にお伺いして、その悲惨な状況や苦しみ、怒りを全て筆記し、その日の内に社長まで報告を上げていた。そしてそれは現在でも同じだ。

新たなXデーに向けて

 毎回、皆さん方の苦しみを聞くうちに「このままではいけない。会社としても何かをしなければ」という考えがクボタにも出てきたようだ。最初の頃、クボタは見舞金・弔慰金の支払い時に必ず尼崎市内の大きな地図を広げて「当社以外にもアスベストを扱っていた工場はある」と言っていたが、疫学調査報告が発表されて以来、地図を広げる事はなくなった。確かに尼崎は多くの工場があり、大気汚染も酷かった時代もある。しかし、この様に大量に中皮腫患者が発生する事はクボタが原因以外には考えられない。

 先に記者会見をした3人の患者達からクボタに対して補償を求める動きが出てきた。そして、それに続くような形で他の患者さんも体制を整えつつあった。まずは治療中の方から早急な救済を…とクボタに対して申し入れを行った。

 10月のある夜、患者さんを中心にクボタとの話し合いが持たれた。クボタから部長数名が出席した。治療中の患者の中には病院を抜け出してきた方もいた。パジャマ姿にガウンを羽織って真剣に討議した。話が詰まってきた頃「社長に謝罪を!」という声が挙がった。「そうだ、まず社長が患者と家族に対して謝るべきだ」・「社長を出せ!」という皆の厳しい声に、苦渋の表情を浮かべる部長達。「私の命は僅かしかないのです。私の前で謝ってください」と涙する女性患者に、顔を上げられない部長もいた。職務とはいえ、この様な苦しい状況の中に置かれた彼らに心なしか同情を感じた。

 二回目のXデーはそれから約2ヵ月後の12月25日だ。

 クボタの幡掛社長が「患者と家族の会尼崎支部」の集会に参加して皆さんに謝罪を行なったのだ。「ご迷惑をお掛けしました」と深々と頭を下げる社長。その時私は社長の横に座していた。謝罪の後、会場の皆さんからいろんな意見が出た。社長はその質問に対して「工場の外と中は差別をしない」ときっぱりと答えた。この瞬間「救済金制度」へのスタートを切ったのだ。

…続く>>

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