クボタショックから2年

古川和子

「クボタショック」に向けて

 日本中を震撼させた「クボタショック」からやがて2年。6月29日の毎日新聞夕刊で突然のスクープだった。しかし、その5ヶ月前の1月には朝日放送系のニュース番組で「住民が中皮腫発症」と紹介されていた。「クボタ」の名前こそ出してはいないが上空からの写真を見れば地域の人にとっては一目瞭然だった。その時のニュースを見て「もしや・・」と疑問を抱いていた人もいた事が後にわかった。

 先日、尼崎市で起こったJR列車事故から2年の報道を見ていて私も別の感動を込めて2年前を思い起こしていた。列車事故があった4月25日の翌26日にはクボタの部長達と患者3名が初めて会うことになっていたのだ。面会場所は列車事故の起こった至近距離、JR尼崎駅近くのある公民館の一室を借りていた。その前年10月から一人目の患者である土井雅子さんと出会い、彼女の発病した原因を調査して行くうちに二人目の被害者、故前田恵子さんと知り合った。そして、前田恵子さんの口からは当時のクボタ旧神崎工場の様子について驚くような言葉がたくさん出てきた。やがてもう一人の男性患者とも出会い、3人は勇気を持って「当時工場の中で何があったのか、クボタに聞いてみよう」と決まった。3月のある日だった。その決心を受けて尼崎労働者安全衛生センターの事務局長飯田浩さんが、当時同じく市会議員をしていた「米田さん」という元クボタOBの方に相談を持ちかけた。驚いた米田議員は早速クボタに話を持ち込んだ。「まさか!」というのが当初の彼らの反応だった、と聞く。その様な経過を踏まえて、4月26日午後から私たちはクボタと会うことが決まった。

 会ってどうなるのか? 会ってみて何が解るのか?

 あのような大企業が正直に認めるだろうか。

 面会する事が決まった後は更なる緊張感が湧いてきた。

 緊張した中で迎えた前日の突然の「列車事故」のニュース。食い入るようにテレビ画面を見ている中である種の不安がよぎった。「明日に予定されている面会は大丈夫だろうか?」考えてみれば、あのように大きな列車事故の中に、当事者を含めたその家族・知人が含まれていないとも限らない。不安な想いで迎えた翌26日。予定通り患者3名とその妻、尼崎安全センターの飯田さん、関西安全センターの片岡さん、そしてクボタからは担当部長3名と橋渡しをしてくれた米田議員そして私のメンバー11名が揃った。「やった!」と私は心の中で拍手した。話し合いがどうなるのかは解らないが、綺麗にスタートが切れた…その事に感動したのだ。そして生来私の楽天的な性格は「この話は『GOサイン』が出たのだ」と勝手に解釈していた。

 話し合いの前に、クボタから資料が配られた。驚くほど詳細な資料に眼を見張った。A3の用紙に事細かに、アスベストを使用していた時期と使用量、そしてその作業工程等など。用紙の右上には「マル秘」のマークが押印されていた。一枚一枚を丁寧に説明する担当部長。その時に知った工場内の被害者の数には唖然として、話し合いの後帰路についた私はその数字ばかりが頭に浮かんできて少々気分が悪くなったものだ。

 というのは、私の認識の中での腹膜中皮腫患者は胸膜中皮腫患者に比べてかなり少ないと思っていた。それが、クボタの資料の中には驚くほどの数で発症していた。

 「腹膜中皮腫は青石綿により発症することが多い」とかつて聞いた事があったが、まさにその通りなのか。私達に考えられない状況で被害が発生していた…。この事に衝撃を受けると共に「工場の中でこれほどまでに被害が発生していたのに、工場の外にも石綿が飛散していないと思っていたのか」という質問が繰り返された。この質問に対しては「工場の外にまで被害が及んでいるとは当時は解らなかった」との回答を繰り返すのみだ。

  3人の患者は口々に、発病以来の苦しかった状況を語り始めた。今も尚、抗がん剤治療を受けながら「死」に直面して家族と共に闘っている事を訴えた。男性患者の奥様からは夫の発病以来の不安と苦しみが涙ながらに語られた。

 「これは公害です」とそれぞれが訴えた。

 「工場の塀一つ隔てたこちら側までアスベストが飛んでこないという事が証明できますか」・「工場から、白い煙が舞い上がっていて火事だと思って駆けつけたら粉塵だった」

 (これは、コンクリートのミキサーが故障してセメントが舞い上がっていた。当時近所の通報で消防車も出動したという返事)・「何時も工場の塀外の道は白くなっていた」

 発病以来、痛みと不安に苦しんできた患者さん達は堰を切ったように語りだした。

 しかし、その言葉の中に「補償」という文字は一度も無かった。発病した原因を知りたい。クボタの工場の中でいったい何が起っていたのか、そしてそれが自分達の病気と因果関係が有るのか…彼らの誰もがその答えを求めていたのだ。

 2時間余りの話し合いは終わった。釈然としないままに時間が来たのだ。最後に私は米田議員のもとに駆け寄り言った「よろしくお願いします」と。何故この様な言葉が出たのか解らないが、3人の患者さんをよろしくお願いします、という想いを込めて私は頭を下げていた。それは米田議員も後に「あの時の貴女の言葉が忘れられなくてね」と語っていた。

 クボタの部長達が引き揚げた後に、私達はまだ部屋に残って今後の対策を練った。

 間違いなく踏み出した第一歩。日本で初めての「アスベスト公害」をどの様にして会社側に認めさせるか…いや、それよりも絶対にクボタが原因だと言える確証をもっと模索しなければ。当日配布された資料により「間違いない」という確信はあったものの今後はどの様に進めてゆくのか等など、真剣に議論しました。

 当時、クボタ内部では「(まだ原因も解らないので)会わない方が良い」という意見も有ったようだ。しかし、その様な中で米田議員の「堂々と会うべき」という強い意志が通った。この米田議員は大変正義感の強い方であると聞いたことがある。

 それから暫くして、クボタ側から「見舞金」の話がでた。「見舞金200万円」という提示に誰もが戸惑い、一様にクボタの真意が理解できなかった。「工場の近隣住民の方が中皮腫を発症されて苦しんでおられる事に対して、永年当地で操業してきた当社として何かできることは無いかと考えて、お見舞をさせていただく事にしました」というものだ。このお金を受け取ったら「今後は一切何も言わない」という条件付なのか懸念すると「お見舞金以上でも以下でもない」との答え。即座に私は「受け取って下さい」と彼らに勧めた。何のためらいも要らない。クボタが近隣住民の中皮腫発症を認めて200万円支払うのだから。今までは何も無かったのに「因果関係は不明だが近隣で中皮腫発症」という厳然とした事実が出来たのだ。「今までの苦しんだ事への償いにはならないが、今後自分達の被害状況を訴えて行く為の『心の肥し』として受け取って欲しい」と私は提案した。3人の意見もまとまった。そしてその時にクボタが提示した「見舞金・弔慰金規定」なるものがあり、そこにはクボタの指定する医療機関名が書かれていた。3人の見舞金が支払われた後に、飯田さんと私でその用紙を持って尼崎市内の病院中を廻る計画をしていた。「皆さん、中皮腫になった方はクボタから200万円支払われますよ!」と宣伝して被害状況の把握に努める予定だった。

 その様な思惑を含みつつ、見舞金の受け渡し準備は進み、「Xデー」は近づいてきた。

間に合わなかったAさん

 実は、3名の患者さんの他にも既に死亡されている被害者がいたのだ。ある時、関西労働者安全センターに労災申請の相談に来られたAさんという40歳代後半の男性だ。彼は大学卒業後大手のチェーンメーカーで設計の仕事をしていたが中皮腫発症で休職中だった。まだ学童期の子供を抱えていて、将来への不安を強く感じていた。

 治療中の兵庫医大で同じく治療中の患者さんから紹介されたのだが、Aさんのアスベスト曝露が職場の中から浮かんでこなかった。Aさんと知り合ったのは、私が土井雅子さんと出会った頃だったと思う。Aさんは男性であり、それまでの私達の認識では「職業曝露」しか考えられなかった。しかしかなり詳細に職歴を調べても曝露歴は浮かんでこなかった。労災申請は暗礁に乗り上げていた。暗中模索の中で、ある「キーワード」が浮上してきた。「小田南中学校」だ。どこかで聞いたことがある…「あ、そうだ土井雅子さんも小田南中学校に一年間通学していた」と気付いた私はAさんの居住歴を調べた。なんと、尼崎で生まれて小学校・中学校までクボタから近い距離にいたのだ。背筋がゾクッとしてきた。興奮してAさんに連絡を取り、再度事務所に来てもらったのは翌年の1月19日。私の話に驚いた彼は「幼少期の頃の事を母に聞きます」と言ったきり連絡が取れなくなった。病状が急変したのでは、と心配するが一向に連絡が取れない。ある時、兵庫医大に行くと病室に彼の名前が有った。面会しようと病室を覗くと、Aさんのベッドは医師も駆けつけて緊迫した雰囲気だ。とても声を掛けられなくて退散。後になって、この日の夜Aさんが逝去されたことを知った。この時の無念さが私達を駆り立てて「早くクボタへ申し入れをしなければ」と決心させたのだと思う。

最初の「Xデー」当日

 あるご遺族のお家に伺った帰りの車の中。

 「毎日新聞が記事にしています!」と朝日放送のディレクターから突然の電話。

 明日見舞金の支払いが行なわれるという事実を、早くから朝日放送はつかんでいた。

 しかし、その前日に毎日新聞が夕刊でスクープしたのだ。そして、朝日放送は午後3時のニュースで「周辺住民に見舞金」のテロップを流した。

 日本中が騒然となった「クボタショック」の始まりだった。

 クボタの部長が記者会見をしているニュースを見て思った。「何故今頃?」と。

 実は、5月28日に朝日放送で「終わりなき葬列」の総集編を放送していたのだ。

 そしてその時にはクボタの伊藤部長が朝日放送のインタビューに答えていた。

 残念ながらテレビでは会社の実名が出なくて「大手機会メーカー」とだけなっていた。何故、その時に企業名を出さなかったのかと担当のプロデューサーに尋ねたら「古川さん、人は長い人生の中でいろんな関わりを持って生きています。アスベスト曝露がクボタだと特定することは難しい。その様な確証の無い状態での実名報道は出来ません」との返事だった。

 前日からの取材合戦の加熱もあり、見舞金支払いが行なわれる予定だった場所は二転三転した。「何時でも連絡が取れるように携帯を離さないで」と飯田さんからの指示。

 場所設定は難航した結果、ある会館を「安全懇話会」という名称で借りた。親しくしてきたマスコミ関係者から「居場所確認」の為の連絡が続々と携帯の留守電に入っている事も無視してその会館へ向かった。

 部屋には既に、患者さん3名、クボタの部長達と米田議員、飯田さんが揃っていた。

 緊張した中で行なわれた見舞金の支払い。意外と簡素な領収書。懸念されていた「一筆書く」こともなく本当にお見舞金の支払いが行なわれた。

 終了後、米田議員から「あの時の古川さんに言われた言葉がずっと心に残っていた」と聞いた。「え?何と言いましたか」・「よろしくお願いします、と言われました」とにこやかに答えた米田議員は、最初に会った時とは別人のごとくに顔が穏やかになっていた。

 その後は、皆様ご存知の様に患者さん3人揃って記者会見が行なわれ「これは、公害です」と日本で初めてアスベスト公害が発表された。

 そしてそれ以後、私達は幾つかの「Xデー」を迎える事となった。

…続く>>

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