自動車販売会社での「間接ばく露」で中皮腫を発症した女性事務員の労災認定事例
公開日:2026年8月15日
執筆:中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会
事務局長 澤田慎一郎
自動車ディーラーの事務員として勤務中、整備工場に出入りしたことでアスベスト(石綿)の間接的なばく露を受け、約54年の潜伏期間を経て悪性胸膜中皮腫を発症した女性の労災認定事例について紹介します。
本件は、直接の石綿取扱作業者ではない「事務職」であっても、作業環境に応じた間接ばく露が客観的に認められたこと、また患者本人に石綿ばく露の認識がない場合も、詳細な職歴調査に基づき業務上が決定された点で非常に意義深い事例です。
本件概要
2022年1月に悪性胸膜中皮腫を発症した女性が、かつて勤務していた自動車販売会社での石綿ばく露を原因として労災請求を行い、2025年11月に姫路労働基準監督署において労災認定(業務上決定)されました。
本件被災者は、アスベストを直接取り扱う作業(ブレーキの交換作業など)を行っていなかったものの、事務所に隣接する整備工場への日常的な立ち入りがあったことや、他社における事務職の認定例を踏まえ、周辺作業による「間接ばく露」が認められました。
本件被災者の概要
傷病名::悪性胸膜中皮腫(上皮様)
傷病発生日(初診日): 2022年(令和4年)(当時70代)
労災請求日: 2025年(令和7年)2月
労災認定日: 2025年(令和7年)11月
被災者居住地::東京都内(兵庫県より転居)
石綿ばく露歴
:被災者は、1968年(昭和43年)4月から1971年(昭和46年)2月までの約2年11ヶ月間、自動車販売会社(ディーラー)Nにおいて事務員として勤務していました。このうち、全期間にわたる約2年11ヶ月の石綿ばく露が認められました。
労災認定までの経過
被災者は、2021年末頃から左胸の痛みや呼吸困難を感じるようになり、2022年1月に近医の受診を経て、左胸水貯留を指摘され、その後の精密検査で「悪性胸膜中皮腫」と確定診断されました。2025年2月に労働基準監督署へ労災請求をおこないましたが、当会にご相談があったのはその少し前で、ご相談もご家族からの治療に関するものでした。当初、患者さんご自身も「アスベストばく露」について思い当たるものがありませんでした。
労働基準監督署の調査の過程では、都内のがん専門病院の初期カルテに「アスベスト曝露:なし」と記載されていたことが、労働基準監督署の担当官から問題視されました。「カルテの記載では被災者が主治医に『石綿ばく露はない』との話をしている。カルテの記載は重い」として、労基署側が不支給決定や本省協議への回付を安易に検討するという局面がありました。残念ながら同僚等で、被災者の石綿ばく露を証言してくださる方もいませんでした。
しかし、この「ばく露歴なし」というカルテの記載は、中皮腫の告知を受けたばかりの被災者自身が、数十年前の短い事務職勤務とアスベスト被害との結びつきに全く思い当たっておらず(自覚がなく)、問診時に主治医に対して「心当たりはない」と答えたため、医師が患者の言葉をそのまま診療録に記録したに過ぎないものでした。アスベスト疾患に対する知識のない患者が発症当初に自覚を持てないことは極めて一般的な事象であるにもかかわらず、調査担当者がこれを「ばく露がなかった証拠(本人の積極的な証言)」として誤認・曲解しようとしていました。
これに対し、被災者本人の自覚の有無にかかわらず客観的な作業環境の精査を行うべきであると書面等で意見しました。かつての自動車販売店での整備実態(ブレーキライニング等へのアスベスト使用、タイヤ交換やエアーブローによる粉じん飛散)や、他社における同種の女性事務員の労災認定例を盛り込んだ詳細な意見書を複数回にわたり提出し、労基署に対して客観的な事実調査を行うよう強く求めるとともに、被災者の石綿ばく露を証言する同僚等がいなくとも認定すべきであると主張しました。
こうした根拠に基づく働きかけにより、労働基準監督署はカルテの一文のみに惑わされることなく、慎重かつ客観的な職歴の精査を行い、2025年11月、本省協議を経ずに労働基準監督署長により業務上決定(労災認定)が下されました。
労災認定の理由
就労環境におけるばく露の推認
被災者は約2年11ヶ月間、自動車販売会社の事務員として在籍していました。事務所と整備工場は隣接しており、業務上の確認や伝達のために日常的に整備工場内に出入りしていました。当時、自動車全般のブレーキにはアスベストが広く使用されており、エアーブロー作業等によって滞留した粉じんを吸入したことが認められ、周辺作業における「間接ばく露」に該当すると判断されました。
医学的な確定診断
組織生検および胸水細胞診等の病理検査により、上皮様の「悪性胸膜中皮腫」であることが医学的に確定診断されました。
十分な潜伏期間
最初の石綿ばく露開始時期(1968年4月)から中皮腫の発症(2022年1月)までの期間は約54年であり、潜伏期間の基準(10年以上)を十分に満たしていました。
本件労災認定の意義
本件労災認定の意義 本件認定は、直接アスベストを取り扱っていない「事務職」や「周辺作業者」の救済において、以下の極めて重要な意味を持ちます。
周辺作業者における間接ばく露の正当な評価
自動車の整備場や建築現場の周辺など、石綿が飛散する環境に日常的に立ち入るだけでも、十分な「間接ばく露」として労災認定され得ることが実証されました。直接の石綿取扱作業を行っていなくても、当時の作業環境や社会背景に基づく合理的な推認がなされるべきです。
初期カルテの「ばく露なし」記載の克服
中皮腫は数十年の潜伏期間を経て発症するため、患者自身が発症当初は過去のばく露原因に気づいていない(自覚がない)ことが珍しくありません。カルテにある「ばく露なし」の記載は、単に「患者に自覚がないこと」を医師がそのまま書き留めた記録に過ぎず、客観的に「ばく露がなかったこと」を証明するものではありません。今回の認定は、行政がカルテの記載を曲解して不支給の口実にすることを防ぎ、詳細な職歴や作業実態から客観的に判断することの重要性を改めて示した点で、実務上極めて大きな意義を持っています。
直接アスベストを触る仕事でなかったとしても、整備工場などの近くにいた事務職の方で中皮腫になった方がいれば、ご自身の記憶だけで労災請求を諦めず、ぜひご相談ください。