中皮腫に絶対に勝つ!(患者手記)
公開日:2026年8月8日
執筆:沖縄支部 名嘉山兼翔
※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

皆様、初めまして。沖縄県在住の名嘉山兼翔(なかやま けんしょう)と申します。現在40歳で、妻と3人の子どもたち(小学4年生、小学2年生、年長)と一緒に暮らしています。私は、希少がんである胸膜中皮腫(上皮様)の患者です。
私はかつて、小学校の教員を10年以上務めていました。学校教育の現場や教育委員会で働く中で、学校生活にどうしてもうまく馴染めず、自信を失ってしまう子どもたちを数多く見てきました。
その経験から、「この子たちの自信を育むサポートがしたい」「彼らが現状から新たな一歩を踏み出す力になりたい」と強く思うようになり、私自身も新たな人生にチャレンジしたいという思いもあって、2022年の3月に思い切って教員を辞めました。いきなり全ての子どもたちを救うような大きなことはできませんが、まずは不登校で悩んでいる子どもたちや親御さんたちの力になりたいと模索し、現在は那覇市の首里で、1対1で子どもたちを支援する個別サポート塾「翔」(サポショウ)を立ち上げ、経営しています。
長く苦しかった、確定診断までの1年半と深い絶望
私が身体の異変を最初に感じたのは、教員を辞めてから約1年半が経った2023年の9月頃でした。肋骨や背中のあたりに痛みが出たのです。私は趣味でベンチプレスなどの筋トレをハードにしていたため、最初は「筋トレでどこか痛めたのかな」と軽く考えて整形外科を受診しました。しかし、レントゲンを撮ると左側の肺が真っ白になっており、すぐに那覇市立病院を紹介されました。胸水が溜まっていて、その水を抜いて検査したところ、ヒアルロン酸の数値が非常に高く「胸膜中皮腫の疑いがある」と告げられたのです。
すぐに詳しい検査のために沖縄病院を紹介されましたが、この最初の「疑い」の時期が、精神的には一番どん底で苦しい時期でした。インターネットで調べると、アスベストが原因であることや生存率など、残酷で絶望的な情報ばかりが目に飛び込んできます。
子どもたちはまだ小さく、「どうするんだ。俺の命はもう終わってしまうのか」と目の前が真っ暗になりました。夜、子どもたちを寝かしつけた後、妻と2人で「もう死ぬ前提」のような思い出話をして涙を流したこともあります。不安とプレッシャーは子どもたちにも伝わっていたようで、入院の報告をしようとしただけで子どもが急に泣き出したこともありました。時には、テレビのニュースで逮捕された犯罪者を見たり、街ですれ違う見ず知らずの人を見たりして、「なんで俺なんだ。あの人じゃだめなのか」と、今思えば大変失礼で黒い感情が湧き上がってくるほど、心が荒みきっていました。
ところが、2023年の11月から12月頃にかけて、自然に胸水が消え、数値も正常に戻ったのです。一時的な強い炎症だったのではないかということで、一旦は経過観察となりました。しかし、ほっとしたのも束の間、年が明けた2024年の2月頃から再び胸水が溜まり始めました。抗生剤を打っても全く効かず、3月には初めて入院して胸水を抜く手術(生検)を行いました。結果は陰性でした。その後、7月にまた水が溜まり、膿胸になっていたため2回目の手術(生検)をしましたが、これも陰性でした。
2024年の夏から秋にかけては本当にきつかったです。原因不明のひどい寝汗(腫瘍熱)と炎症が続き、3〜4ヶ月ほど入院生活を送りました。抗生剤による点滴治療しかすべがなく、全く熱が下がらず途方に暮れましたが、飲み薬のナイキサンに変えたところ、すっと熱が引き、なんとか家で年越しを迎えることができました。
そして2025年1月、福岡の産業医科大学病院へセカンドオピニオンに行きました。その時点でも「中皮腫の手前かもしれないが、今は経過観察しかない」と言われました。ようやく明確な動きがあったのは2025年3月です。CT画像でついに腫瘍のボコボコとした動きが見え、4月に産業医大で4回目の手術(生検)を行いました。実はこの時、もう思い切ってP/D(胸膜切除/肺剥皮術)をしてもらおうという覚悟で行ったのですが、万が一中皮腫でなかった場合のリスクが大きすぎるということで生検にとどまりました。そしてここでようやく「胸膜中皮腫(上皮様)」の確定診断がつきました。最初の疑いから、実に1年半という長い月日が経過していました。
叔父の一喝「絶対勝つ」
確定診断がつく少し前頃から、私は高校時代に空手でお世話になっていた叔父に病気のことを相談するようになりました。1年半も「疑い」と「陰性」を繰り返し、気持ちが浮き沈みする中で、私はどこか弱気になっていました。そんな時、叔父から「お前、もしかして『治ればいいな』って思ってないか?」と図星を突かれたのです。そして、「それじゃ治らないぞ。『治ればいいな』じゃなくて、お前自身が『絶対治す、絶対勝つ』と思わないと勝てないぞ」と一喝されました。
実は高校生の頃、空手の大会前に叔父から「とにかく『絶対勝つ』と口に出して信じ込め」と言われ、その通りに念じたら見事優勝できたという成功体験がありました。叔父の言葉を聞いた瞬間、当時の記憶と、病気に対して弱気になっていた自分の不甲斐なさ、そして「守るべき小さな子どもたちがいるのに、気持ちで負けていた」という思いが複雑に交錯し、涙が止まらなくなりました。
それ以来、私は毎日お風呂に入ってシャワーを浴びながら「絶対勝つ、絶対勝つ」と声に出して自分に言い聞かせています。病気であることを公表し、ブログで発信し始めたのも、「とことん闘ってやる」という決意の表れです。弱音を吐かず、前向きに発信することで、自分自身を鼓舞し続けています。
オプジーボと「筋トレ禁止令」
治療としては、確定診断後の2025年5月から沖縄病院で免疫療法(オプジーボとヤーボイ)を開始しました。しかし、1回打っただけで肝機能に異常が出てしまい、一旦ヤーボイは中止して、ステロイドで肝臓の炎症を抑えることになりました。それでも薬はしっかりと効いており、ステロイドを飲みながらでも7月のCT検査では腫瘍が縮小しているのがわかりました。
8月からはオプジーボ単剤で治療を再開しました。この時期、ちょっとした「笑い話」があります。私はベンチプレスで100kgを上げることを目標にするほど筋トレが好きだったのですが、筋トレをすると、オプジーボの副作用である「筋無力症」の検査数値(CK値)が跳ね上がってしまい、副作用なのか筋トレの影響なのか見分けがつかなくなってしまうのです。一度、筋トレ後に採血をしたら数値が桁外れに出てしまい、主治医の先生から気まずい空気の中で「過度な筋トレは控えてくれ」と禁止令を出されてしまいました。軽い腕立て伏せなどは許可されたのですが、それでは満足できません。それでも筋トレでメンタルを保ちたかった私は、「オプジーボを打った当日と翌日だけハードに鍛え、次の検査(2週間後)までには数値を戻す」という自分なりのコントロールをして乗り切っていました。
素晴らしい先生方との連携、そして大手術へ
オプジーボは非常によく効き、2025年11月にはCT上では腫瘍がほぼわからないほどになりました。再度産業医大に行くと、先生から「手術適用です」と提案されました。オプジーボであと数年は行けると思っていたので予想外の提案に驚き、大きなリスクを伴う手術に悩みました。そこで、兵庫医科大学の橋本先生の意見も聞きたいと思い、12月にサードオピニオンに行きました。
驚いたのは、先生方の連携の素晴らしさです。沖縄病院の先生に「兵庫医大に行きたい」と伝えても快く連携してくださり、産業医大の田中先生に初めてメールした時もすぐにお返事をいただけました。さらに田中先生に「兵庫医大で手術を受けます」とお礼の報告メールをした際も、すぐさま温かい言葉で背中を押してくださいました。この恵まれた環境には今でも深く感謝しています。
兵庫医大に決めたのは、橋本先生のご説明に深く納得できたことに加え、偶然にも同じ日に沖縄出身で4、5年前に橋本先生の手術を受けて今も元気な患者さんとお会いできたという運命的な出来事があったからです。
そして2026年1月29日、兵庫医大でP/D(胸膜切除/肺剥皮術)を受けました。過去4回の生検による癒着がひどく、予定の8時間を大幅に超える11時間の大手術となりました。
術後はたくさんの管やドレーンをつけた状態で歩かされたり、反回神経麻痺による声のかすれや、激しい痛みとの闘いでした。ICUを出て相部屋に移ってからも、痛くて2時間しか眠れず、食欲も体力も落ちて、これまでの手術と比べてもまさしく地獄のような苦しい3週間でした。それでも「退院したら美味しいものを食べる」と気合いを入れ、自力で飛行機に乗って沖縄へ帰りました。
前を向いて、子どもたちと共に
術後は体力的にも声の面でも落ち込みましたが、3月頃から少しずつ回復し、今は塾の仕事にも復帰しています。塾の生徒さんや親御さんには、私の入退院でお休みをいただき多大なご迷惑をおかけしました。
それでも「またサポショウで学びたい」と待っていてくれた子どもたちがいました。彼らが現状から新たな一歩を踏み出し、自信を育むサポートをすることが、私自身の大きな生きがいであり、前に進む原動力になっています。術後3ヶ月の検査でも異常なしと言われ、今はとても前向きで清々しい気持ちです。
最後に、同じように病気と闘っている患者の皆様、そしてご家族の皆様へお伝えしたいことがあります。病気との向き合い方は人それぞれで、「病気と共存する」「今の幸せを大切に過ごす」という考え方も深く理解できます。正解はありません。ただ、私の経験からの個人的なメッセージとしては、やはり「絶対に勝つ」という強い気持ちを持っていただきたいということです。
私も最初は絶望し、落ち込み、苦しい思いをしました。しかし、YouTubeなどで元気に過ごされている患者さんたちが、時には冗談を交えながら明るくお話されている姿を見て勇気をもらい、前を向くことができました。だからこそ、今度は私が、一人でも多くの方に勇気や希望を与えられる存在になりたいと願っています。もし沖縄でお会いする機会があれば、一緒に前を向いて頑張りましょう。
強い気持ちを持って、一日一日、できることを模索しながら行動していきましょう。絶対に勝つ。その信念を胸に、私も子どもたちの未来のために走り続けます。
胸膜中皮腫関連記事
阪神淡路大震災の震災復興作業でのアスベストばく露と中皮腫の発症(患者手記)
納得のいく治療をしてほしい/胸膜中皮腫の手術と抗がん剤治療後のいま(患者手記)
タワーパーキングでの石綿ばく露と胸膜中皮腫(二相性)の発症(患者手記)
タクシー運転手の職歴で胸膜中皮腫(上皮様)を発症(患者手記)
胸膜中皮腫(上皮様)とテニスボール大の腫瘍と放射線治療(患者手記)
胸膜中皮腫(肉腫様)にオプジーボやヤーボイの治療を続ける(患者手記)
怖いものは何もない:胸膜中皮腫(上皮様)患者としての病気との向き合い方(患者手記)
悪性胸膜中皮腫の発症から6年:胸膜切除・肺剥皮術(PD)から無再発を維持(患者手記)
30時間程度のアスベストばく露で悪性胸膜中皮腫を発症し公務災害認定(患者手記)
胸膜中皮腫上皮型の発症と胸膜切除/肺剥皮術(P/D)、その後の療養(患者手記)
胸膜中皮腫(肉腫型)の確定診断から2年と信頼できる病院を求めての転院(患者手記)
悪性胸膜中皮腫と診断されても、「生きる」と誓った(患者手記)
建設会社でのアスベストばく露と胸膜中皮腫の発病とその後の人生(患者手記)
悪性胸膜中皮腫(肉腫型)患者として5年を生きて:なぜ建材メーカーはアスベスト含有建材を売り続けたのか(患者手記)
悪性胸膜中皮腫の診断から免疫療法と手術の治療を経て(患者手記)