中皮腫が悪化し、障害年金が不支給から支給へ(患者手記)
公開日:2026年8月5日
執筆:四国支部 竹田友也
※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。
愛媛県松山市に住んでいる竹田友也です。52歳です。現在、胸膜中皮腫(上皮様)で自宅療養をしています。
私の病気がわかったのは、2023年の3月頃のことでした。右側の背中に、軽い筋肉痛のような痛みを感じたのが始まりです。動かすと少し痛む程度だったのですが、1週間経っても治らないため、念のため近くの小さな病院を受診しました。レントゲンを撮っても原因が分からず、「もし気になるなら大きい病院へ行ってみては」と勧められました。ちょうど私の母が以前、肺がんを見つけてもらった南松山病院があったので、そのままその足で向かったのです。そこでCTを撮ってもらったところ、お医者さんから「珍しいところにちょっと怪しいものがある」と言われました。
もう助からない
その後、愛媛大学病院を紹介してもらい、生検などの詳しい検査を受けました。結果は、胸膜中皮腫でした。「がん」と言われても最初は実感が湧きませんでしたが、姉や妹がインターネットで調べてくれた情報を見て、かなり厄介で恐ろしい病気なのだと知りました。ネットには「もう助からない」「手術しても助からない」といった絶望的な言葉が並んでいて、私自身、「もうだめなのかな」「ここで自分の人生は終わりか」とどん底まで落ち込みました。
夜も眠れなくなり、死んだ後のことばかり考えていました。両親に伝えた時も、最初はよく分かっていなかったようですが、姉から詳しく説明されると、私以上にひどく落ち込んでしまい、眠れない日もあったようです。でも、ずっとふさぎ込んでいても、治らないものは治りません。「もうなったものはしょうがない」「なるようになるしかない」と、ある時からスッと気持ちを切り替えることができたんです。どうせ考えたって治るわけじゃないなら、もういいやと思えるようになりました。
私の腫瘍は上皮様だったため、愛媛大学病院の先生から「今なら手術でいける、胸膜を取れば大丈夫」と力強い言葉をもらいました。少しでも助かる可能性があるなら、やるという選択肢しかありませんでした。
手術を決断と再発
2023年の9月に、右側の肺の周りの胸膜だけを取り除く「胸膜切除・剥皮術(P/D)」を受けました。術後の痛みは全くなく、自分でも驚くほど元気で、手術の翌日には歩くことができたほどです。若いから回復が早かったのかもしれません。 手術から1ヶ月後、アリムタとシスプラチンの抗がん剤治療を4クール行いました。この時は吐き気などはありませんでしたが、ひどい味覚障害と便秘に悩まされました。何を食べても味がせず、まるで砂を食べているような感覚が半年ほど続きました。「もう一生治らないのではないか」と不安になりましたが、なんとか順調に最初の治療を終えることができました。
しかし、手術から約1年が経った頃、思いもよらないことが起きました。肺の中に再発が見つかったのです。自覚症状は全くなく、痛みも息苦しさもありませんでした。まさかという思いで少し落ち込みましたが、姉や妹に相談し、調べてくれた免疫療法を受けることにしました。 2024年の年末頃から、オプジーボとヤーボイの2剤を使った治療を始めました。幸い、副作用はほとんどありませんでしたが、期待したほどの効果も得られませんでした。腫瘍が小さくなることはなく、現状維持のような状態が続いた後、半年後の2025年5月頃には「少し大きくなっている」と言われ、治療は打ち切りとなってしまいました。事前にゲノム検査も受けていたのですが、私の家系にがんになった人がいないことが分かったくらいで、治療に直結する有効な結果は得られませんでした。
抗がん剤治療と強烈な吐き気
免疫療法が効かなくなり、「もうこれしか治療法がない」ということで、2025年8月に再びアリムタとシスプラチンによる治療に戻ることになりました。以前受けた時は食欲もあって比較的楽だったので、今回も大丈夫だろうと思って受け入れました。1回目、2回目はなんとか無事に終わったのですが、3クール目で地獄を味わうことになりました。
今までに経験したことのないような強烈な吐き気が襲ってきて、それが10日ほど続いたのです。寝ても覚めてもずっと気持ち悪く、「気がおかしくなりそうだ」「本当に死にたい」と一瞬思ってしまうほど辛い体験でした。それに加えて、原因不明の内出血を起こしてしまいました。退院しようとした矢先に急に腹痛と立ちくらみがして、トイレに駆け込むと真っ黒な便が大量に出たのです。そのまま立てなくなり、再入院して胃カメラや大腸カメラなどの検査をたくさん受けましたが、結局どこから出血しているのかは分かりませんでした。その後、なんとか家に帰ったものの、貧血がひどくなり再び病院へ行き、その場で輸血を2パック受けてまた入院することになってしまいました。8月末の入院を最後に、毎月病院に行っては「次の治療をいつにするか」と聞かれる日々が続きました。
しかし、あまりの副作用のきつさに、私自身「もう治療をやめようかな」と考えるようになっていました。9月頃、いよいよ「もうきついからやめたい」と先生に伝えたところ、血液検査の結果、腎臓の数値も悪化していて、とても抗がん剤に耐えられる状態ではないと言われました。こうして、大学病院での積極的な治療は終わり、緩和ケアへ移行することになりました。両親や兄弟にも相談しましたが、「自分の人生だから、自分の思った通りにすればいい」と背中を押してくれました。先生からも「このまま治療を続けて衰弱していくより、治療をやめて体力を回復し、残りの人生を楽しく過ごした方がいいのではないか」と言われ、自宅療養を選びました。現在はお世話になるベテル病院を紹介してもらい、月に1回の血液検査と、2ヶ月に1回のCT検査を受けています。
傷病手当金と石綿健康被害救済制度
病気になってからは経済的な不安もありました。最初は傷病手当金と石綿の救済制度で月に約20万円受け取っていましたが、1年半で傷病手当金が打ち切られてしまいました。その後、障害年金の申請手続きをしたのですが、最初の申請では落ちてしまいました。しかし、3クール目の抗がん剤の強烈な副作用で急激に体調が悪化したタイミングで、専門家の方の力も借りながら再申請をしたところ、無事に審査が通り、月に約10万円の障害年金を受給できるようになりました。救済制度の給付金と合わせて、なんとか経済的にも安心して生活できるようになりました。
ここまでやってこられたのは、家族の支えがあったからです。特に姉と妹は、診察に同席してくれたり、治療法を調べてくれたり、遠いところから病院の送り迎えをしてくれたりと、本当によくしてくれました。そうでなければ、一人で抱え込んでしまい、どうなっていたか分かりません。精神的にも本当に助けられました。
今は、毎日1時間ほど散歩をしたり、趣味のゲームやプラモデルを楽しんだりして過ごしています。最近では『バイオハザード』の新作に夢中になって、徹夜してしまったこともあるくらいです。実は、緩和ケアに移る際、父がこっそり先生に私の余命を聞いたらしいのですが、「あと半年くらい」と言われたそうです。でも、あれからもうすぐ半年になりますが、私はこうして元気に生きています。もし将来、何か新しい有効な治療法が出てくれば、その時はまた検討するかもしれませんが、今は残りの人生をやりたいことをやって楽しく過ごしたいです。
私が日々心がけているのは、「たとえ身に病が起きようとも、心まで病まず」という本の言葉です。私は幸いなことに自覚症状がなく、痛みや息苦しさもほとんどありません。だからこそかもしれませんが、病気のことに囚われすぎず、なるべく気にしないようにして生きています。緩和ケアの先生も「長生きできる人は病気のことを忘れているからだ」と仰っていました。病気になっても心まで病気にならないよう、これからも自分らしく、前を向いて生きていきたいと思っています。
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