納得のいく治療をしてほしい/胸膜中皮腫の手術と抗がん剤治療後のいま(患者手記)
公開日:2026年8月5日
執筆:関東支部 中野良伸
※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。
私は東京都世田谷区で生まれ育ち、高校を卒業してからずっと左官職人として生きてきました。父が経営していた「中野左官工業所」で働き始め、父が他界した平成12年からは私が代表として跡を継ぎ、現場一筋でやってきました。62歳になった今、まさか自分が「中皮腫」という病気になるとは、夢にも思っていませんでした。
病気が発覚したのは、2024年の秋のことです。最初は微熱と咳が続く程度で、「ただの風邪だろう」と高を括っていました。しかし、処方された薬を飲んでも咳は一向に治まらず、次第に息苦しさを感じるようになりました。かかりつけの医者に診てもらうと、すぐに大きな病院へ行くように言われました。レントゲンを撮ってみると、右の肺に大量の水が溜まっていて、肺が押しつぶされた状態になっていたのです。
「アスベスト(石綿)」。 医師からその言葉が出た時、私の頭の中で、過去の現場の風景と今の自分の体が一本の線で繋がりました。これまで健康診断の項目に「アスベスト」という文字があるのは知っていましたが、自分には関係のないことだと思い込んでいたのです。しかし、胸水を抜いて調べた結果、ヒアルロン酸の数値が異様に高く、2024年12月、正式に「右悪性胸膜中皮腫(上皮型)」と確定診断されました。
埃にまみれた現場の記憶
思い返せば、私がこの業界に入った昭和56年(1981年)当時は、アスベストに対する危機感など現場には皆無でした。就職して最初に入ったのはテナントビルなどの現場で、内装が何もないガランとした空間には、常に埃が立ち込めていました。当時はマスクなんてしません。空調も切られた蒸し暑い中、まさに「激務」とも言える最悪の環境で仕事をしていました。
左官の仕事では、材料を粉の状態から水で練って使うのですが、その粉が舞うんです。また、施工後の凸凹を平らにするために研磨する作業もあり、そこでも粉塵を吸い込んでいたと思います。後になって知ったことですが、私たちが使っていた左官用のモルタル混和材「テーリング」の中には、石綿が含まれていたそうです。
さらに記憶に残っているのは、吹き付けアスベストの除去作業や、劇場の防火壁の現場です。誰かが除去した青緑色のケバケバしたものが袋詰めされているのを間近で見たり、有名なホールでの作業でアスベスト含有建材に接近したりすることもありました。あの時吸い込んだ「埃」が、40年近い潜伏期間を経て、私の体を蝕んでいたのです。
治療の開始——抗がん剤との闘い
診断を受けた当初は、「まさか俺が」という信じられない気持ちと、「死ぬ時は死ぬもんだ」という一種の開き直りのような感情が入り混じっていました。しかし、信頼できる医師との出会いが私を前向きにさせてくれました。関東中央病院の加藤先生です。セカンドオピニオンも勧められましたが、先生との相性が良く、非常に話しやすかったため、すべてをこの病院に任せることに決めました。
治療はまず、手術に向けた体力を温存しつつ中皮腫を叩くため、年明けの2025年1月から抗がん剤治療(シスプラチンとアリムタ)を3クール行うことから始まりました。 これが想像以上に過酷でした。副作用で、1日に1kgずつ体重が落ちていき、入院中にいきなり10kgも痩せてしまったのです。水分を十分に摂るようにと言われていたのを軽く考えていたせいか、脱水症状のようになり、体中の水分が抜けていくような感覚でした。 肺が水で潰れていたことによる息苦しさとは別に、薬の影響で常に船酔いのような目眩と立ちくらみに襲われました。立っていることもままならず、トイレに行くのもやっとの状態。それでも、「手術を受けるためには耐えるしかない」と、ベッドや椅子でじっと時が過ぎるのを待つ日々でした。
10時間に及ぶ大手術
抗がん剤治療を乗り越え、2025年3月末にいよいよ手術の日を迎えました。私が行ったのは「胸膜切除/肺剥皮術(P/D)」という、肺を残して胸膜と腫瘍を取り除く手術です。 朝の9時に手術室に入り、麻酔で意識が落ちた瞬間から、次に「中野さん」と呼ばれて目が覚めたのは夜の7時半。約10時間半に及ぶ大手術でした。
驚いたことに、術後の痛みはほとんどありませんでした。肋骨を1本取っているため、胸のあたりを切っているのですが、神経が切断されているせいか、触っても感覚がなく、痛みも痒みも感じないのです。時折、中の筋肉や神経がくっついたり離れたりするような「ピリピリ」「チクン」とした違和感はありますが、耐えられないような痛みではありませんでした。 ただ、肺の膜を剥がすという大掛かりなことをしたので、肺活量は健康な時の6割から7割程度に落ちてしまいました。リハビリのために歩こうとしても、すぐに息が上がってしまいます。それでも、肺を残せたことは不幸中の幸いだったと思っています。
支えとなった「食」と家族の絆
入院生活の中で唯一の楽しみであり、また苦しみでもあったのが食事です。病院食はどうしても味が薄く、食い合わせが悪いと感じることもありました。抗がん剤で気持ちが悪い時でも、お腹だけは空くんです。 ある時、病院のメニューに飽きてしまい、妻に頼んでふりかけを買ってきてもらいました。先生に「何を食べてもいいよ」と言われていたのをいいことに、ご飯にかけてかき込んだものです。また、病院食でたまに出る「お茶漬け」や「カレーライス」のような、少し味の濃いものが妙に美味しく感じられました。 術後、先生からは「ダイエットはしないで、今の体重をキープしてください」と言われています。食べることもリハビリの一つ。今は妻の手料理を普通に食べられる幸せを噛み締めていますが、少し食べ過ぎて太ってしまったかもしれません。
そして何より、この闘病生活を支えてくれたのは家族の存在です。特に妻には感謝してもしきれません。私は昔から事務作業が苦手で、会社を経営していながらも書類関係は妻に任せきりでした。今回、労災申請などの公的な手続きが必要になった際も、妻がすべて代行してくれました。 また、妻の知人であった右田孝雄さんの妹さんとのご縁で、「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」の方々とつながれたことも大きな救いでした。右も左もわからない中、先輩患者さんやご家族のアドバイスがあったからこそ、病院選びや治療方針に迷うことなく進めたのだと思います。一人だったら、不安に押しつぶされていたかもしれません。
これからの生活と伝えたいこと
現在、術後の補助化学療法も終え、経過観察をしています。体調は日によって波があり、倦怠感や立ちくらみもありますが、基本的には自宅で穏やかに過ごしています。 仕事に関しては、正直なところ、以前のように現場の最前線で働くことは難しいと感じています。重いものを持ったり、激しく動いたりするとすぐに息が切れてしまうからです。フォークリフトやクレーンの資格を取って現場に関わり続けることも考えましたが、今の体調ではまだ働くイメージが湧きません。それでも、近所の人たちと立ち話をしたり、妻と買い物に行ったりする何気ない日常が、今はとても大切です。病気のことは隠していません。同業者の仲間や近所の人たちにも、私の姿を見てもらうことで、「アスベストは怖いものだ」という注意喚起になればと思っているからです。
同じ中皮腫と闘っている方、あるいはこれから治療を始める方へ伝えたいのは、「納得のいく選択をしてほしい」ということです。私はたまたま最初の病院で良い先生に巡り会えましたが、不安があれば気の済むまでセカンドオピニオンを受けるべきだと思います。そして、辛い時は家族や患者会のような場所に頼ってください。一人で抱え込まず、誰かに気持ちを吐き出すだけで、心は随分と軽くなるはずです。
これからの人生、どうなるかは分かりません。しかし、先のことを心配しすぎて暗くなるよりは、今日できることを楽しみ、無理のない範囲で笑って過ごしていきたい。それが、中皮腫と共に生きていく私の、今の偽らざる心境です。
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