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悪性腹膜中皮腫の発症と手術、治療を続けての20年(患者手記)

公開日:2025年3月19日

執筆:沖縄支部 鹿川真弓

※本執筆は、患者の体験をもとに個人の感想として執筆しています。治療選択など、医療に関わる問題については主治医をはじめ、通院されている病院の「がん相談支援センター」など、医療関係者との相談を踏まえてご検討ください。

腹膜中皮腫の発症

沖縄本島在住で石垣島出身の鹿川真弓です。私は石垣島で高校まで過ごし、沖縄本島の保育専門学校を卒業した後、1999年に保育園に就職しました。子どもたちとの関わりに戸惑いながらも、初めての一人暮らしに胸を弾ませ、毎日楽しく仕事をしていました。 2004年4月、26歳の頃にお腹が日を増すごとに大きくなって保護者の方や職員から「おめでたですか?」などとよく聞かれるようになりました。少し気にしていましたが、もともと太っていたのでそこまで悩むことはなかったです。

しかしゴールデンウィーク前から胃のあたりが痛くなり、食欲も落ちて、食べていないのに体重だけが増えていきました。おかしいと思い、近くの病院を受診することにしました。腹部エコーをすると医師が小さな声で、「なんだこれ?」と言われ、少し不安になったことを覚えています。検査の結果を家族の方に話したいということで、ちょうど姉の出産予定で石垣島から母が来ていたので説明を聞いてもらいました。その時は深刻には考えていませんでした。母は説明で卵巣腫瘍の疑いで腹水があると言われたそうです。 その日の夜に姉が破水したということで、母とともに病院に向かいましたが、私の体調が急激に悪化し、姉と同じ総合病院の救急で見てもらい検査をしました。より詳しい検査をするために、琉球大学病院へ転院を勧められました。

翌朝には姉に女の子が誕生しました。私にとっては初の姪っ子、その子の顔を見て、その日のうちに琉球大学病院に転院しました。毎日のように検査をし、1週間後に卵巣腫瘍の疑いで生検手術をしました。手術では大量に腹水を抜きました。 術後からは吐き気もなく、食欲も少しずつ戻ってきました。今思えば、腹水で胃が圧迫され、食欲がなかったと思います。手術結果が出るまでは、婦人科病棟で周囲の方と楽しく過ごし、いろいろと励まされ、前向きになれました。術後20日には結果が出て、そこで初めて腹膜のがん、「悪性腹膜中皮腫」と告げられました。その時、私の中ではがんイコール死だったので、とても怖かったです。

治療選択と副作用

抗がん剤治療で小さくしていくことを話し合いました。婦人科から内科病棟に移り、治療に向けていろいろと毎週のように検査をしました。 がんと聞いてからは、毎日のように不安と絶望で日々泣いていましたが、婦人科病棟で仲良くしていた方々や、婦人科の主治医の先生方が励ましに来てくれて、とても勇気づけられました。また、検査がない日は外出・外泊ができ、姉の家で姪っ子と一緒に過ごすことができました。

2004年7月中旬には治療方針が決まり、点滴で薬は2種類、ジェムザールとシスプラチンで、副作用として食欲低下、吐き気、脱毛、白血球などの低下があると説明がありました。治療前にはセカンドオピニオンとして国立がん研究センターに行ってきましたが、緩和治療を勧められました。

沖縄に戻り、主治医にセカンドオピニオンの報告をすると、 抗がん剤治療を試してみようとのことで、1ヶ月に1回のペースで開始することになりました。1週間はムカムカ、吐き気、嘔吐の繰り返しでした。その後は食欲は戻り、元気に動き回ることもできました。体調の良い日は、外泊もできました。 4クール目ぐらいからは、白血球減少や貧血があり、外泊ができなくなったり、咳がひどかったり、間質性肺炎を気にして、抗がん剤治療を1ヶ月休んだこともありました。8クール目からは、2ヶ月に1回の治療になり、家で過ごす時間も長くなり、気持ちにも余裕ができました。入団院を繰り返し、 1年9ヶ月で14クールをし、抗がん剤の副作用にも耐えて、治療は一旦終了しました。

手術を決断

当時、静岡がんセンターの米村先生のことを主治医から聞き、2006年11月に受診することにしました。 先生は今までの検査結果を見て、最初に比べたら抗がん剤で腫瘍は小さくなっているので、腹水も急激に溜まることもないから手術ができると言われました。

手術するにあたっては、お腹にポートを埋め込み、そのポートから腹腔内治療を勧められ、沖縄に一旦戻りました。 その後は主治医と米村先生とで、手術前の治療に関して電話やメールでのやり取りをしていただき、そして手術は年明けの2007年3月に決まり、それまで腹腔内へポートから直接の抗がん剤治療を5回しました。また、点滴の針を刺す血管が狭くなったため、CVポートを鎖骨の下に埋め込む手術もし、2007年3月、29歳の時に岸和田徳洲会病院で米村先生による手術を受けることになりました。

手術前日、別の先生からの説明では、「卵巣、子宮を全摘出、大腸に一部を取り、人工肛門になります。あとは、開いてみて、転移しやすい臓器を取るかもしれません。大手術になります」と説明されました。私は卵巣・子宮全摘出と聞いて、ショックを受け、その後の説明は耳に入ってきませんでした。 「こんなに臓器を取っても大丈夫なの?一生子供が産めなくなるんだよ。そんなに淡々と説明しないで」と思いました。先生は悪くないのに、悲しみや怒りで涙が止まりませんでした。

手術当日、腹腔内ポートやCVポートから点滴をされ、手術室へ向かい、たくさんの臓器を切除され、手術時間は7時間もかかりました。 翌日には、個室に移り、自分の体から管が7本刺さっており、ベッド周りにはたくさんの袋がぶら下がっていたのにはびっくりしました。そしてストーマにも戸惑いました。

入院中は石垣島から、祖母やおば、いとこたちがお見舞いに来てくれました。たわいもない話で盛り上がり、傷が痛くなるほど大笑いし、その時は自分が病気だということを忘れるぐらいとても楽しかったです。 退院前に今後の治療のことを話し合い、最低でも抗がん剤治療を5クールすることになりました。

腹膜中皮腫の再発

沖縄に戻り、ジェムザール・シスプラチンで手術前より量を減らして治療をして一旦終了、経過観察となりました。ストーマ生活の3年間は大変な日々でした。2010年、32歳の時にストーマを外し、石垣島に戻り、臨時で幼稚園教育として仕事に従事することができました。2015年、37歳のときには石垣島から沖縄本島に引っ越し、憧れの犬を飼うこともでき、保育士としてめいっ子が通っていた保育園に就職することができました。1年に1回はペット検査 、月に1回は血液検査も受けてきました。仕事や私生活も順調で、このまま完治すると思っていた矢先の2016年、38歳の時に7月のPET検査と9月の腹部造影CTで異常ありと主治医から言われ、再発が確認されました。1回目の手術から9年目のことでした。

すぐに主治医が米村先生に連絡をし、岸和田徳洲会病院で米村先生の診察を受けましたが、やはり再発でした。また手術・治療、せっかく保育園に就職できたのに、と悔しい気持ちになりました。 職場の同僚から、「絶対にまた戻ってきてね」、「待ってるからね」と言われ、園児たちからも「早く元気になってね」とたくさんの寄せ書や絵をもらいました。

すぐに治療をした方がいいということで、今回は内服薬の抗がん剤TS1を10月から開始。 そして11月から点滴でドセタキセルとシスプラチンを1ヶ月に1回、5クールをし、2017年3月、39歳の時に岸和田徳洲会病院にて2回目の手術を行いました。そして5月には退院し、沖縄に戻ることができました。 今回はストーマではないので少し安心しました。

手術では、胸膜にくっついていた腫瘍は取り除くことができず、1ヶ月に1回の治療を続けることになりました。1クールは入院し、白血球数値や血小板などをみましたが、特に異常がなく2クール目からは外来で受けました。10クール目からは、保育士として保育園で再度を働き始め、毎日楽しく過ごしていました。そして、5年間で57クールを終えました。

胸膜への腫瘍の浸潤

2022年9月、44歳の時に熱や息苦しさが続き、検査した結果、レンドゲンで胸膜に浸潤していることが分かりました。10月に2週間間隔でオプジーボ治療を開始。オプジーボ治療は抗がん剤と違って、あまり副作用もなくすぐに仕事に戻ることができたので、期待が大きく持てました。 しかし、オプジーボ治療4回目終了後に、熱が出て疲れが出やすくなったために外来受診をしたところ、CT造影・採血・レントゲン検査で肝障害・血栓症の疑いがあるということで12月1日に緊急入院しました。 この時にはあまりにも体がきつく、もうダメだと、気持ちも弱っていました。その後、肝生検、骨髄穿刺検査にて、オプジーボによる肝障害・血球貪食症候群を発症していたことがわかりました。意識が朦朧としていて、この時の記憶があまりありません。 12月3日に母と姉に主治医から現在の状態の説明があり、姉は初めて妹の死を覚悟したそうです。12月5日には心肺蘇生についての意思確認書を渡されて、救命措置・延命措置の説明を受けたそうです。家族は救命措置については希望するが、延命措置については、「真弓なら頑張れるから希望したい」との意見や、「これ以上苦しんでほしくない」、「真弓なら周りのことを考えて希望しないはず」などの意見が出て、家族みんなでいろいろ話し合ったそうです。

藁にもすがる思いで、病気になってから色々お世話になっている方に、厄除けや健康祈願をお願いし、みんなで祈ったそうです。その祈りが届いたのか、翌々日頃から体調が良くなり、13日にはリハビリを開始できるくらいまで回復しました。 後で母から聞いた話では、意識が朦朧としていた時は心不全を起こしていたということです。1ヶ月半後、退院し、2月には午前中だけ仕事をするまでに回復しました。しかし3月頃から咳や苦しさが増え、レントゲン検査では左肺が真っ白になっているのを見てびっくりしました。主治医から胸水を抜いて癒着術を勧められたので、すぐに入院しました。胸水穿刺は部分麻酔をし、管が入るぐらい切り、肋骨の間に管を入れていきました。 管からは注射器で胸水を引き抜こうとしましたが、あまりにも粘着力が強く、注射器では抜けませんでした。呼吸器内科の先生は、ここまで粘着力が強いのはあまり見たことがないと言われまました。機械の圧を最大限にし、ようやく胸水が少しずつ抜けるようになりました。 夜は傷口とその周辺が痛く、寝返りもできず、イライラして、あまり寝ることもできませんでした。

胸水は1日目で1000ml抜き、2日目で620ml抜いて、4日目には胸膜癒着術をしました。その後は胸水が出ていないことを確認し、管を抜き、しばらくして退院しました。息苦しさもなく自宅療養していましたが、退院から2週間後のレントゲン検査で、胸水が胸の半分まで溜まっていることが分かりました。咳や息ぐるしさもなかったので、半分まで溜まっていることに不安になりました。1回目の胸水穿刺から1ヶ月後に、2回目の胸水穿刺をしました。 1回目に比べ、注射器で抜いたときはそこまで粘着力はなかったそうです。半日で1000ml抜き、2回目の癒着術をおこないました。

主治医との話で、アリムタとカルボプラチンの治療を4週間間隔で行うことになり、そのまま1回目の抗がん剤治療をして退院しました。 副作用で、吐き気、ムカムカと食欲低下はあるものの、嘔吐はなく、シスプラチンとドセタキセルと似たような作用だったので、2回目からは外来で治療を行うことになり、気持ちも新たに頑張ろうと思いました。 外来治療3回目のレントゲンでは少し影が薄くなっていたので、6月からは職場とも相談し、しばらくは午前中の3時間だけ仕事を復帰させてもらいました。

これからの沖縄での生活

2024年の4月からは、6時間勤務ができるまでに順調に回復し過ごしています。 腹膜中皮腫になって20年、 胸膜中皮腫になって1年10ヶ月経ちました。主治医の先生には20年間親身に治療していただき、 常に感謝の気持ちでいっぱいです。現在は抗がん剤治療のため、10日間は仕事を休み、 治療と仕事を両立しています。 これも職場のみんなの理解と協力があるからこそだと感謝しています。最初の頃の外来治療中は、石垣から母が来て、身の回りの世話をしてくれました。ここ1年は、姉が私の家で在宅勤務をしながら、食事の準備や犬の散歩をしてくれています。 ずっと見守ってくれた家族や愛犬リラのためにも、一日一日を大切にし、姪っ子と甥っ子の成長を楽しみながら、悔いのないように生きていきたいと思っています。

沖縄支部の結成に至ることができ、今後も地元の患者さんやご家族と協力しながら、つながりをつくっていきたいと思います。

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